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 小説のタイトルには思えないが、まぎれもない小説である。文学である。名作である。
 多様な言葉を用いて存分に表現してみたいという、書き手の欲求が見事に実現されている。
 この作品は素晴らしい。私はこういう小説が大好きだ。


【真情を吐露する技法】
 動物の側から人間社会を風刺する技法、酔狂に仮託して核心を刺し貫く技法、いずれも、対象物からやや距離をおくことでバッサリと切り捨てられるが故の巧みな技である。
 著者は、麻(大麻)の依存者を装って、酔狂的な技法を模している。酔剣ならぬ快刀乱麻である。
 YO、朋輩。という表現が多用されている。朋輩には 「ニガー」 とルビがふられている。「ヨー、ニガー」、これが快刀の鋭くも心地よい切れ味をリズミカルに演出している。


【陰影を生み出す対立軸】
 俺なくして生きられない要介護のおばあちゃんに向ける著者の心境と、直截には一切介護に手を出さない叔母に向ける忌憚のない表現が、強烈に冴え渡っている。
 当事者と傍観者の陰影である。傍観者の存在を柔らかく包み込むには、当事者である著者の心は純真すぎるのであろう。全ての読者は、おばあちゃんを巡って流された両者の涙の違いに気づくがいい。そして、著者の言葉に表現に、癒されるがいい、刺されるがいい。
 私にまで、著者の気持ちが乗り移ってしまいそうである。叔母と同じ立場で介護に関与していた人々は、この小説にいかなる涙を流すのであろうか。それとも蒼ざめるのか。
 私は介護の経験をしたことはないけれど、小説の終末近くになって、著者のおばあちゃんに向ける “愛情” に涙がこぼれそうになってしまった。


【終わっている】
 《ばあば》、その語は自らの《おばあちゃん》からの忌避をあたかもパパママの延長であるかのような言葉遣いで主張する、ああ、どの世代からパパ、ママをごく普通に使い出したのかと憶測すれば、まさにこの叔母たち、俺の親らの前後の世代が父母となってからではなかったのだろうか? YO、朋輩、言葉は人間を作っている。家族を我と我が子、ふた世代の殻で完結させたがるニューファミリーは、孫の知育より己の老いと責任の放棄を選ぶ。俺は十五の頃から濫用し続けた語で、その救い難きを《終わっている》と表現しよう。《終わっている》、最悪の表現だろ? 1980年代を正確に捉えた大阪の子ども達の言葉は尚もまだ、その地下社会的ニュアンスを湛えているのだ。90年代以降を跋扈した《ヤバイ》が如何に真なる《ヤバ》さを欠こうが、《終わっている》時代に生まれた《終わっている》は、その言葉自体が心底《終わっている》んだ。YO、朋輩。言葉は人間の糞だ。何を食べたか、どんな生活をしたかで糞は変わる。俺は《終わっている》世代代表として、《ばあば》ファミリーに憐憫の一瞥をくれて、さあ、もう少し続けさせてもらおう。 (p.52-53)

 長い書き出しになってしまったけれど、切りようがなかった。

 《終わっている》は、暗澹たる心を抱いて社会の深層に潜入してきた当時の若者達の、偽らざる心情吐露という感じの表現だ。分かる。
 《終わっている》世代の若者は、デスペラードに向かうのではない。虚空を見つめるような瞳が既に《終わっている》ことを告げている。デスペラードには実世界に対する希求がある。《終わっている》世代は虚ろな瞳で実世界を見ている。希求はない。あるのは世界を直視する純粋な魂だけ。

 「言葉は人間の糞だ」 という上記の上品ならざる表現に記憶が巻き戻された。大学時代クラブの先輩(岩田さん)が同じことを言っていた。岩田さんは著者と同じ大阪人で、今東光というお坊さん作家から影響を受けていた人だった。この 「言葉は人間の糞だ」 は今東光の “毒舌辻説法” の中の名言だったのではないだろうか。
 このことを思い出して、この作品の歯に衣着せぬ直截な表現のルーツは、今東光というお坊さんにあるに違いないと思えてきた。

 

 

<了>