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 谷沢永一さんが、お三方と対談している本である。
 谷沢さんの著作では 『人間通』 が最も知られていると思うのけれど、私はその 『人間通』 なる書籍が好きではない。書かれている内容は、教養ある人でなければ書けない素晴らしいものであることは分かるのであるが、読むと気持ちが悪くなるのである。怨みのような気がこもっているのを感じてしまうからだ。
 しかし、この書籍では、対談なので著者は会話を楽しんでいる。これなら不快になることもなく最後まで読める。


【エッセンスを解する奇妙な能力をもつ日本】
[谷沢]日本の場合は、いつもよそで何かがおこると、そのエッセンスを素早く吸収するというところがあるんですね。
[会田] ビルマでも、インドシナでも、タイで、日本と同じような状況の国があるんですが、それに気づいて、しかも自覚するというのは日本だけなんですね。
[谷沢] その条件として、やはりシナというものをモデルにして見てきたからでしょうね。シナにおこる文化的、政治的変化をすべて書物を通して、すぐエッセンスを理解するという訓練が何百年も続いていたんですね。遣唐使船をやめてからは、すべて本で知ったんです。しかも実際のエッセンスを全部解するという奇妙な能力を確実に身につけた。
[会田] これも日本だけですな。(p.113)

 単に「能力」とは言わずに、「奇妙な能力」と言っているところが味噌である。「奇妙」とは「奇しくも妙なる」ものであるから、神霊界の働きを意味している。
 太古の時代から世界中に存在していた偉人達は同時に卓越したシャーマン達であった。彼らは、その時空を超えた霊能力故に、その地の未来の荒廃を見通し自ら定めて、あるいは天啓・霊告を受けて、秘儀を保つに相応しい場所として日本を目指してきたのだ。その肉体が日本に到達できなくとも、それに替わる重要な文物は日本に届けられてきたのである。
 日本は、そのような吹き溜まり場所として地球上にただ一つ定められた土地である。そのような土地には受け取るに相応しい民族が存在する。すべて神霊界の意図する処である。


【鉄道建設の第一目的はなんだったのか?】
 山陽本線は明石から急に山の中を通るようになった。これは軍艦が瀬戸内海に入ってきて、そこから艦砲射撃されることを計算したからなんです。ですから、呉という大切な軍港を山陽本線が通っていないという現実があるわけです。だからわざわざ呉線をつくった。 (p.122)

 クラウゼビッツの 『戦争論』 を訳したのは、確か森鴎外であったように記憶している。日本中に張り巡らされた鉄道建設は、この翻訳書を基に、戦争時の軍需物資輸送を最大の目的として計画されたものであったはずである。明治維新直後の日本人達は、世界の脅威を真剣に捉えて日本を鍛えていったのである。
 現在の日本人は、どうであろうか。現実界で国の守りをなす人々は当然いてくれるのであろうが、一般人は余りにもノー天気に思えて仕方がない。誰であれ、国防の気概は無くして良いというものではない。国民が気概を持たなくなったら、「神国日本」 とはいえ神々は日本人を加護しない。神威はどこまでも人間の気概に宿るからだ。

 

【関帝廟】
 関帝廟という関羽を祭った社が、シナ全土にはやたらとある。日本でも神戸などにはありますが、そのお祭りといったら、みんな着飾ってご馳走を食べる。つまり関羽は、シナの庶民信仰の道教とも結びついて、シナの庶民的英雄の典型になっているわけです。これも『三国志演義』が蜀に大きく感情移入したところから生まれているといえるでしょう。 (p.157)

 関帝廟は横浜中華街の中にもある。台湾にもある。廟の中には、「これが神様~?」って感じの、デッカくてしかもド派手な衣装を身につけた関羽の模型が置かれているのである。日本人から見るとこういった廟は、やけに現実的で漫画チックに思えてしまう。長くて太い線香の煙に燻された廟の内部を私は好きでない。日本の神社のような清々しさとは対極的な空気である。現世利益ばかりを乞うドロドロとして重たい想いが充満している不快感である。「ここまでするのか」と思えてしまう現実重視の民族に、私はかなり強い違和感を抱いてしまう。

 

<了>