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 オランダ人作家の小説。ボート競技に青春をかけている青年が主人公。


【小説に相応しい題材か?】
 日本人が小説に期待するものとは、第1に繊細な表現、第2にストーリーの面白さなのだと思っている。少なくともチャンちゃんはそうである。けれど、この小説は、その期待には沿わない。
 恋愛的なストーリーは皆無だし、そもそも母親以外の女性は登場しない。男の汗だけが薫り高い小説である。ボート競技は、ヨーロッパ地域では人気のあるスポーツなのだろうから、民族文化的な側面からの咀嚼もありうるのだろうけど、いかんせん普通の日本人には遠すぎる。ボート競技の体験者ならばやや入り込めるかも知れない。
 そもそも小説を含む芸術の繊細さは、女性性を多く内に含んでいなければ出来上がらないものである。ゆえに、私はこの小説を読み終わって、沢木耕太郎の、『敗れざる者たち』のような、スポーツ・ドキュメンタリー物の作品であったほうが良かったであろうにと思ってしまった。
 


【時代背景】
 町に路面電車が走らなくなってから、もう3ヶ月くらいになる。レールは次々にはがされてゆく。まだ残っているところもあるが、表面に輝きはなく、鈍く黒ずんでいる。枕木とブロックは、燃料を求める家族の長たちが持ち去った。(p.22)

 第二次大戦直前がこの小説の時代背景。しかし、著者のプロフィールには1956年生まれと書かれている。現在のオランダが背景であったとしても、ストーリー上の問題はないであろうに、その理由がわからない。
 もしかしたら、その頃のオランダは、ボート競技などのスポーツを含めて、国全体が比較的に輝いていた時代だったのかもしれない。タイトルからそれらしく感じられる。著者なりの愛国心の発露なのだろう。


【ボート競技として】
 しかしフラットアウト・スプリントは、あらゆる常識を無視し、反故にして実行する、一か八かの最終手段だ。大切なのはピッチだけ、それ以外は何も考えてはならない。とにかく自分の体はついてこられると信じてピッチを上げ続け、体の記憶のなかに実際はありもしない力を引き出し、体が壊れる前に、体の存在自体を忘れなければならない。なぜなら、すべてを台無しにしかねない危険が伴うからだ。建物から柱を取り去ってしまうようなものだ。 (p.168)

 ボート競技をやったことがある人ならばこの表現がよく分かるのではないだろうか。「あの競技の負荷は尋常ではない」と聞かされたことがあるけれど、その記憶だけで、上記の表現が誇張ではないらしいと推測できる。
 オリンピックの決勝戦で、序盤のオーバーワークが祟って上体を上下動させてしまい、最後までその上下動が収まらないまま、ついに逆転され金メダルを取れなかったレースを見たことがあった。あのレースの序盤こそがフラットアウト・スプリントという状態だったのだろう。どれほど練習してこようと、肉体のコントロール限界を維持できないほどの極限的なレース方法を選択してしまえば失敗である。
 とまれ、ボート競技とは、それほどまでに過酷な競技なのだろう。

 

<了>