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 久しぶりに梅原先生の本を読んだ。大学生の時以来だ。当時読んだ本の中では 『地獄の思想』 という本のことを一番よく覚えている。能の思想や作家・高橋和巳の思想などがタイトル内容の枠組みの中で興味深く書かれていたのだった。


【梅原日本学の視点】
 この本の横帯には、「梅原日本学の到達点とエッセンスを完全収録」 と書かれている。
 梅原日本学といわれる膨大な著作の全てを読んだのではなかったけれど、今思うに、梅原先生の思想は、常に歴史上の人物達の情念の世界を起点にして展開していたものであったような印象がある。これが、多くの読者をひきつけたポイントであったと思うのだけれど、今の私は、このポイント故にやや物足りない思いがある。というより、明らかに欠けているものがあると感じている。


【この書籍は、日本の思想を通時的に学ぶのに適している】
 ペックの 『仏教(上・下)』 に記述されていた程のパースペクティブな広範さはないけれど、日本国内の仏教を通時的・比較思想的に学ぼうとするのに、この本は適している。歴史の展開順に、仏教思想も大分なページを割いて記述されているからだ。
 また神道に関しても、基本的なことであるけれど、律令制時代と明治維新前後から戦争の時代にかけて、国家神道として利用された神道と、それ以外の本来の神道を、きちんと峻別して記述している。
 さらに、近代日本に影響を与えた、マルクスなども、小難しい理論ではなく情念の視点から記述されているし、近代西欧において両刃の剣として機能してしまったニーチェの思想も、根本的な警鐘者の思想として記述されている。


【「森の思想」で終わってしまう神道ではない】
 大学生当時の私は、神道などほぼ眼中になく、仏教が日本文化の担い手であるというふうな、未熟な考え方をしていた。仏教渡来以前の日本にあったものですら、仏教の枠組の中で考えようとするカテゴリー・エラーを犯しながら、それを取り立てて意識することがなかったのだ。
 仏教思想や仏像の顔ですらも日本化させてしまうという日本神霊界の奥深さが、私をしてそうさせていたのだと言えないこともないが、エラーはどこまでもエラーである。
 社会人になってから、少しく神道のことを知るようになった今の私は、「森の思想」 が日本神道の根本に関わる思想であるという考えに異論はないけれど、少なくとも、宗教思想としての神道に、人間の情念という視点だけで潜入しようとしても、おそらく掬するものはない、と考えている。だから梅原日本学は「森の思想」で終わってしまうのである。


【神道>仏教】
 仏教ならば梅原日本学の情念の視点でそれなりの解釈が可能であろう。仏教は情念界の宗教であるからだ。
 しかし神道は情念界の宗教ではない。教えや戒律をたれる経典など生みようもない感覚界以上の宗教なのだ。感覚界は情念界よりも繊細な波動世界である。それ故に、神道は、あらゆる宗教思想あらゆる文物に対して透過性をもち、日本文化の中に取り込み吸収する媒質となっているのである。
 梅原日本学の隘路はここである。日本学になっていない。

 

<了>