大学時代、「石灰灯」というクラブの同人誌 に掲載したもの。

 

阿修羅を越えて

                                                       川田隅(大学生時代のペンネーム)

 仮にあなたが未来と現在と過去へと通ずる三叉路の前に立っているとする。この時あなたはどの道を行きたがるだろうか。「さして好奇心も持てぬくだらぬ現実なんか蹴飛ばして、面白くもありそうにない未来への深い恐怖心もあることだし、問うまでもなかろう、行くところは過去だけさ。別に懐古趣味を隠蔽するためにそういっているんじゃない、本音だよ」と私は答えてもいいのだろうか。否。私は私の生きている同時代の悪徳や不条理や狂気を背負って生きて行くべきだと考える。
 かつて私がシュールレアリズムに救いの幻覚(正に幻)を看たのは、私の時代にあって私が正気を保つために、その狂気を芸術的に生きてみる他ないと思えたからではなかったか。確かにブルトンが最後に「愛」という言葉を語った時「馬鹿な!」と吐き捨てるように苛立ったものだ。けれど今は違う。先史時代の人類が未知なるものに遭遇した時に発言されるであろうような驚異、驚愕、そのようなものがシュールレアリズムの根本ではなかったか。稀な出現による興奮という意義を軽く見すぎていたのではなかったか。常なる興奮状態は、人の欲求の際限を無くしてしまう。人間性の十全な解放が行われたら、もはや社会は成り立たなくなってしまう。社会が破壊されるべきものならば、人類が進化せぬ限り、人間もまた滅ぶべきものである。
 私自身が現代という時代の中で、生の不安を社会不安に投影し、政治的行為者としてふるまい、必然的に過激な立ち回りをしていたならば、改革者、先駆者面した闘争が精神昂揚のための蛮行にすぎず、単に復讐心に満ちたエンジェルになっていることに、やがては気付かねばならなかったであろう。未来社会を信じて、未来のためなら現在を犠牲にしたって、それがむしろ正義だと考えるのは驕りではないか。自ら時代の捨石となり死ぬ瞬間、“己の瞼の裏に、かくやくと日輪が昇る”かどうか、己の倫理を超えて答えを知っていなくてはならない。
 いかなる行為も、正義を追及する限り、畢竟自分自身に否定を課すことにしかならない。そしてまた、いかなる過激な行為も倫理的ではありえない。芸術と政治は明らかにその方法を異にする。このような状況でかつて私は何を演じたか? 迷妄を愚昧で彩り、失意を狂躁で上塗りしてピエロを演じた。一体それはどんな正義のために?既にその時、正義は無意味と同義語であったのだ。
 美とか正義だけを思いつめると、人間は暗黒の思想を知らず知らずのうちに覗き込んでしまう。おそらく人間とはそんな風に出来ている。もしも現実の悲惨や道徳上の不毛が、芸術とか革命の観念に遮られることなく、直截に現実の視野に映し出されるならば、その時、人は現実を背負って生きるという道に立っているものではないか。イデアや極楽浄土を希求する時に活用される想像力と、終末へと向かう想像力の狭間にある現実は、一体、誰が背負うべきなのか。完璧なもの完全なものを愛するのは優しい。最も困難なのは、狂気や悪徳や不条理に満ちたこの現実をそのまま受け入れることだ。

 権力に確執しようとする運動家達の中で、自ら孤独な角逐の場に出て、自己欺瞞と自己満足を排除し、己の正義を主張しようとしてそれをなしえず、ついに泣き崩れてしまった真摯な人間達に対して、行為者たりえなかったからこそ、私は共に生きようと言葉をかけたいのだ。真実が誰によっても信じてもらえないという、生にとって最も大切な教訓を、命と引き換えに知らねばならなかったネロとパトラシエの生まれ変わりが私達なのだから。
 どんな腐敗よりも純粋を恐れる性質を有する権力、その権力を頂点とする社会体制の中に、好むと好まざるとにかかわらず生まれでた私達は、もしも生きようとするならば、純粋を固執してはならない。あらゆる退路を自ら断ち、全てを拒否してはならない。もしも死のうとするならば、ネロとパトラシエが死ぬことを欲していたかどうか考えねばならない。他に何一つ出来ないから笑って死のうとするなら、その微笑が、人間を決して容認しないという最後のしるしであってはならない。不可知をたのんで死のうなどと傲慢なことを考えてはならない。人として生まれたならば、人として成せること以外期待できないはずだ。己の死を高めようなどと思うことも卑劣な逃亡ではないか。あくまでも私達は、現実を生きねばならないのだ。生者がある限り、死者は生きん。私達が行き続ける限り、ネロとパトラシエは行き続けるのだから。
 戦争や原爆が人間を滅ぼさなくとも、人間は人間の醜い欲望と悪と相互不信によって滅び、憎悪と裏切りによって、その精神も肉体も畸形化してゆくだろう。ゾウリ虫やゴキブリが背光性を持つように、背徳と滅びへの傾向性は、人間にとってほとんど必然的なものであり、仮に神が存在するとしても、恐らくそれをどうすることも出来ない。―――― 恐ろしい文章ではないか。かつてこの文章に「ああ、そうなのだ」と震撼した私は、今、このような思想を持つことこそ最も罪深いことであると感じている。あらゆる思想は、己の内部で形成され、思想の根底から行為へと移行する過程には、かならず轍を変えた跡があり、その後になって、止むにやまれず行った肯定せんがための否定なのだ、などと語ったところでそのような弁明が許されたりするものではない。
 人間の歴史は、殺害、不正義、暴力であることを片時も止めなかった。正義の名において歴史を変革しうると思った人間達は、全て歴史の中に同化された。形而下的な害悪は形而上的には善事でありうると、世の害悪を語った処で、人の営みが、人としてありうべき根本たるモラルに立ち戻るよう、少しでも矯正されたか。反抗が正しいか否か議論を重ねたところで、反抗が反抗以上のものたりえたか。人間の歴史を振り返ってみれば、人間が人間以上のものたりえていないことに気付くのみなのだ。反抗者の闘争は、すべからく安定生活者の平和希求に劣敗することを私は望もう。こう語った私を非難する人があっても、これ以上私は何も語ることがないのだ。
 過去に二度の世界戦争が行われ、多くの人々が死んだ。捕食者と疾病を克服した人類は、自らの生態系を守るために、自らの手で人口の上限を一定に保たねばならない。戦争は人類レベルの淘汰方法としての必要悪であり、これを容認しようとせず、なおそれに替わる新たな方法を見出しえていない宗教者の存在を、かつて私は嘲笑した。にもかかわらず、今、私は自ら宗教者の側に身を置こうとするものである。
 誰が教えずとも、子の存在そのものを尊重し、慈しんでくれる母親の心が、宗教的なるものの原型なのではないか。宗教の教えとは、この汚濁した世の中から人間を守るために抽出された観念ではないのか。ネロとパロラシエが庇護されるべき処は、決して阿修羅の胸元などではなく、存在そのものを慈しんでくれる母親の心のような、涯なき救済の胸元ではなかったか。

エピローグ  ☆☆☆ 未来へ向けて ☆☆☆

 私が戦後としての同時代の過去を正しく知り、そのまま延長するようにして、未来を洞察する時 ――――― 少しく傲慢な語りが許されるなら、私が同時代に真摯に係わることによって、歴史の底に身を沈め、そのことによってこそ歴史的普遍性を獲得し、歴史の意志を垣間見たとするならば、この時 ――――― 私のイメージの視野に映る像は、たとえばノストラダムスによって予言されたことを実現するであろうような状況をなす。(私の語りは、予言の当る確率、即ち蓋然性の問題などではなく、あくまでも可能性として、危機的状況を表現しようとするものである。確率ゼロでも文学は可能性に固執する。絶望的状況にあるからこそ文学が表現し得る。そして文学表現とは、自らの行為を、ひいては運命を選び取ろうとするところのものでありたい)
 政治権力が強行に驀進してきたその先に起こり得るのもが、戦争でないと、私には到底いえない。過去に自ら成した既成事実の上に立って「現実を直視せよ」というのは政治の常套手段であり、正に政治とはそういうものであろう。戦争とは、政治の行う確信犯罪ではないのか。もしも私達が、広島、長崎の凄惨、酸鼻を看過し、特攻隊精神を精算せずに持ち越し続け、権力に確執する志を持たないならば、私達は時限爆弾を積んで戦いに向かうガレー船の漕ぎ手たる拘束された奴隷に等しい。
 人間悲惨を省みず、人として持つべき正しい理念さえもその身に備えず、ついに国民投票において九条廃棄の改憲案を通過させるならば、世界で唯一の核被爆国でありながら、なお世界に先駆けて滅び行く日本民族の姿がそこに実現するであろう。
 物理戦争、化学戦争の次にくる原子力戦争、コンピュータ戦争は、ボタン一つを押す人がいれば遂行され得る。兵士を多く必要としない戦争が必要とするものは何か。多くの犠牲者だ。多くの日常生活者が必要なのだ。世論を通じて容喙することさえしようとしない無知な日常生活者だけが重用されるのだ。
 もしも日本が平和憲法を護持し、自らそれを世界に明示し続けた上で、なお無抵抗の内に滅びるならば、避けようもなく全世界の破局が直後に続くであろう。そうなってしまった時、――――― (自己肯定性の崩壊に敏感であった芸術の存在とは、一体、何であったのか。幸福よりは不幸を、善よりは悪を、安定よりは不安をこそ課題として見据え続けた文学の意匠が、ついに無意義であったと結果されねばならないのなら、それをなした真摯な人間達の、道徳行為の原動力たる意志もまた、潰え去ってしまうのだろうか)――――― 被爆した隣人を見ながら自らも絶命する時、私は滅び行く肉体を去って意識となって大宇宙に遍在したい。キリスト教文明からニヒリズムと罵られながらも、あらゆる問いに超脱していた唯識として。


19**年11月  <了>



 あとがきにかえて

 ライムライト3号に掲載する予定で昨年書いた「阿修羅に捧ぐ」を、是非精算せねばと思っていた今日この頃でしたので、「阿修羅を超えて」を認めることにしました。時間の枷とタイプ打ちの労を厭う余り、いきおい骨だけの短編にならざるを得ませんでしたけど、それなりの利点もあるかと思います。
 私の文筆はこれでひとまず区切りとして、今後*大文クの文学が、どのような方向を得て展開してゆくか見守ってゆきたいと思います。
 

著者しるす


【 川田の文学事典 】
「性的(セクシー)」見えない部分を想像させること。

       これをメンタルな意味で解釈する。
       つまり想像力が機能し得る領域はセクシーである。
「音楽」   精神生活を感覚的なものに媒介し逃亡させる非在仮構の大泥棒。
「 愛 」   人間が権力に対抗するための最後の砦。文学堕落仕掛け人は、
       これをフロイティズムの通俗的解釈による性的表現の中に常用する。
「説得」   文学意志に決して含有されないもの。


<了>