①では筆者が昔見たジェフの試合のベストバウトを裁いていたのが、実はあの家本政明主審だった、という話をしたが、この話には続きがある。

4-4に追いつかれた後半のロスタイムにジェフのペチュニクがPA内で倒されたシーンがあった。

ここでファールならPK。しかし家本主審は笛を吹かず試合を流し、そのままタイムアップとなった。

この時にスタジアムのジェフサポからは家本主審に対するブーイングもあり、筆者自身も多少は不満に思えたが、今になってみるとあの流した判断というのは試合の流れを考える上で正しかったような気がする。

この試合に限らず、サッカーの試合での好ゲームというのは主審が2人の副審のサポートを得ながら、試合の流れを壊さずに調整して、22人のプレーヤーの動きを微妙に整えていくモノである。

もしあの時に笛を鳴らしていたら、ジェフサポとしては嬉しかったモノの、主審の判断として最も良くない一貫性を欠いたジャッジメントになってしまう。

そうしたら、最後の最後で画竜点睛を欠いたような試合になっていただろう。

先日国民栄誉賞を受けた将棋の羽生善治名人が、対局中の相手の凡ミスに得したはずの羽生名人が「棋譜を汚すな!」と怒ることがあるという。

この孤高のレベルまでいくと相手の敵失で勝っても嬉しくなく、いかに美しく勝ちを得るという高みまで登っているのだという。

話をサッカーに戻す。サッカーにおいて美しく闘って勝つには主審と2人の副審という共同作業が必要になってくる(これはもちろん買収などの汚い意味ではない)。

この時のジェフvsセレッソ戦でも筆者は観戦当時は気付いていなかったものの、家本主審はおそらくアドバンテージなどの試合の流し方に熟練した巧さがあったのだと思う。

そうでなかったら、あれだけの激闘を影で演出することはできなかったと思う。惜しむらくは観戦してすぐ、家本主審の仕事の良さに気づけなかったことにある。

今回の家本主審の試合のジャッジについてはここまでにしておくが、これからもちょくちょくサッカー審判論というのは、考えがまとまったら書いていきたいテーマである。

サッカーという素晴らしさを違う観点から見出しつつある昨今である。