①ではイチローという存在が近年の日本で最も出生数が多かった時期の1つである1973年生まれという話と、イチロー以外の時代の天才と出生数の相関関係についても述べたわけである。
②からはこれからの日本のスポーツ界、いや日本社会全体の問題点についても言及していきたい。
①で述べたようにイチローが生まれた1973年以外にも天才という存在はいずれも生まれてきてはいた。
しかし、過去と現在の違い。そして未来のスポーツ界の問題点とは何かという話である。
それは「ライバルの有無」の違いである。
1967年生まれのキングカズがいた頃のドーハやジョホールバルの頃の日本代表というのはラモスや武田、井原やゴン中山など個性派揃いのタレント軍団が存在した。
桑田真澄には清原和博といういわゆる「K K」というチームメイトにしてライバルもいたし、松坂には「松坂世代」というありえないドラフト会議の大豊作時代もあった。
また田中将大は甲子園の決勝でハンカチ王子こと斎藤佑樹に三振を喫し、準優勝となった。天才には常に倒すべき相手が壁として存在していた。
イチローの場合、甲子園では投手として出場し、勝利投手にはならず甲子園を後にしたため、高校時代の絶対的なライバルというのは存在しない。
その代わりプロに入り、日本でもアメリカでも一筋縄ではいかない百戦錬磨の投手をイチローは相手に立ち向かって幾多の壁を突破したのは、このブログの読者もよく分かるであろう。
しかし時代も21世紀に入った辺りから、強烈な個性を持ったタレントというのが、いつのまにか消え失せ、天才が生まれてもただそれだけ、という感じになった。
以前読んだ柔道の記事で「『日本選手権5連覇』という記事は日本柔道において嬉しい話ではない」
「それはその天才が切磋琢磨するライバルが国内にいないという証左に過ぎないからだ」とあったが、これは日本のスポーツ界全体に言えることだ。
日本の出生数で言えば、出生率1.26で国家保障の危機と叫ばれた2005年でさえ1062530人だった。
それどころか2016年にはとうとう大台も割り込み976979人、2017年は941000人(暫定値)とそうした「天才」という名のダイヤモンドをブリリアントカットするための「ライバル」の存在がどんどん減少しているのが分かる。
振り返って、現代の日本スポーツ界はどうだ?という話である。確かに突出した才能というのはあるタイミングで定期的に生まれる。
しかし、天才という存在は畏友(いゆう)と呼べるライバルがいて、初めてその才能を開花させることができる。
だが、今の日本政府は若い世代に子供を作れるような環境を作らず、結論を先延ばしにして誤魔化しているに過ぎない。
今の日本の首相は国策として「スポーツの成長産業化」と言っているが、その産業の基盤となるべき「才能」が枯渇しつつある。
そんな日本の将来に対して国家元首は口当たりの良い言葉に酔っていないで危機感を強める必要がある。
このままでは日本スポーツ界の成長はないだろう。