前回は火曜日に行われた日本vs中国戦について述べたわけであるが、今回は大会のトリを務める日韓戦について色々述べていきたい。

サッカーにおける日韓戦。それは東アジアの近現代史ともリンクする部分も多くある単なるスポーツの出来事というのを超越した存在である。

古くは1954年のスイスW杯で当時の韓国大統領の李承晩(イ・スンマン)が、日本と闘う韓国代表に「負けたら玄界灘(日本と韓国の間にある海峡)に身を投げろっ!」と言ってチームを送り出したこともあり(試合は韓国が5-1で勝ち、彼らの命は海の藻屑になることはなかった)、また1985年10月26日のメキシコ五輪予選では、敗れはしたものの木村和司が伝説のフリーキックを決めて、日本サッカー界が韓国に続くためには国内のプロ化が必須だ、という考えの契機になった試合もあった。

1997年11月1日のソウルでの日韓戦では、既にW杯の日韓共同開催が決まり、開催国枠ではなく自力での初出場を果たしたい日本サッカー界の悲願を一身に背負ったサムライブルーの日本代表が、13年勝てていなかったソウルでの決戦に2-0で勝利し、世界への扉をこじ開けたこともあった。

またこの試合では良くも悪くも互いの存在や意識に対して希薄で無関心だった日韓両国が、韓国側のレッドデビル(サッカー韓国代表の応援団)のような「LET' S GO TO THE FRANCE TOGETHER(共にフランスに行こう)」という横断幕に代表される両国の間への関心を持つキッカケになった試合でもあった。

日本のサッカー界は先頃亡くなったドイツ人指導者デットマール・クラマーを師として欧州サッカーを傾倒しつつも、プロ化に際してはブラジル人を中心とした南米とも関係を密にした時期もある。

しかしながら、日本のサッカー界にとって常に「壁」として立ちはだかってきたのは隣国である韓国であった。

そして日本サッカー界が成長する節目にはいつだって日韓戦があった。

現在、両国の間での心理的な溝は深まるばかりだが、この年末だけはそうした分かれ目をサッカーの力で忘れたいものである。

②でも日韓サッカー界について考えていきたい。