この筆者のブログもヘビーな読者なら分かるだろうがスポーツビジネスのブログである。そうした中で、プロスポーツという「試合」であり「(利潤を得るための)興行」の場としてのスタジアム(室内競技場ならアリーナ)についての議論は再三このブログで話してきたのは、常連読者ならよく分かるはずだ。

こうした中で、サッカーであれ野球であれ、スタジアムという存在について今までどうあるべきかと言うのも、当然のことながら述べた訳だが、それでもスタジアムというモノに対して、未だに色々な想いや感情が泉のように次から次へと湧いてくる。

そうした中でのスタジアム論というのもわを(今回は自分の矛盾を自分でツッコミながらも)述べていく次第である。

先日読んだ資料に「スタジアムとアリーナのマネジメント」(早稲田大学スポーツナレッジ研究会・編、2017年、創文企画)という書籍がある。

その書籍ではフランスのフットボールクラブであるラシンパリというチームのサッカー部門は、チームの昇降格のたびにその都度、その観客動員数にあったサイズのスタジアムに本拠地移転を繰り返したのに対して、ラグビー部門も一時の例外を除いて、一貫してイブ・デュ・マノワールというスタジアムに本拠地を定着させていた、という話がある。

結果として、それがサッカー部門では観客の流出になり、ラグビー部門ではイブ・デュ・マノワールというスタジアムが自分たちの「ホーム」スタジアムになったという経緯があったと説明した。

もちろんサッカーとラグビーではリーグ運営の方式も違うだろうし、スタジアムの定住=地元ファンのアイデンティティの強化とはいかないかもしれない。

しかし熱烈な巨人ファンのプロブロガーであるプロ野球死亡遊戯(中溝康隆)も「東京ドームはホーム。メジャーリーグという高級な外食もいいけど、自宅での食事が自分はいい」という話をしていたが、競技やお国柄が違っても、ホームスタジアムというモノに対するアイデンティティというのは、もしかした定住によって生み出されるモノかもしれない。

②でもこの理論について掘り下げていきたい。