①では卑近な例で申し訳ないが筆者が働いた例から働く意味とは、家族という閉ざされた狭いコミュニティから仕事を通じて社会性を獲得し、広い社会というコミュニティを獲得するという話をしたが、その社会性を獲得するためのツールとしてスポーツというモノが存在するという話に続けていきたい。

筆者が会社で働くようになって思ったのは、「東京(を中心にした首都圏)というのは、自分が思っていた以上にプロ野球文化の方が強いんだな」というのと「2002年に日韓W杯があったが、あれは一過性のお祭り騒ぎに過ぎず、サッカー文化って定着していないんだな(それは同様に2020年の東京五輪も騒ぐだけのイベントで、日韓W杯みたくスポーツが文化として定着しない可能性も高い、ということにも繋がる)」ということだ。

東京五輪の意義についてはまた別の機会で話すが、今までW杯などで日本にサッカー文化が根付いたというのは、筆者の狭いコミュニティの中だけの話で、社会性という中には定着していなかった。

これは職場だけではなく、筆者が勉強している韓国語のコミュニティでも韓国サッカーに興味があるという人と会ったことは皆無で、韓国語学習者の8割は女性でイケメン韓流スターが目当てだった、という事実からも日韓W杯というメガイベントが一過性のお祭り騒ぎということが分かった。

翻って、働くことによる社会性の獲得という話である。

働くことによって社会性を得るという話をしたが、筆者はやはりプロ野球というのは「社会の公共財(球団は社会全体の持ち物であり、球団オーナーなど個人の私物ではない)」ということであり、Jリーグなどのサッカーチームは「地域の公共財(その自治体の持ち物であり、社会全体とまでは浸透していない)」というイメージがある。

マスメディアで例えるとプロ野球の球団が大手キー局で、Jクラブが地方のテレビ局というイメージがある。

一方で個人的な話だが、筆者は今まで打ち込んできたプロボクシングに最近はほとんど興味を示さなくなった。

理由はボクシングが以前よりつまらなくなったというのもあるが、最も大きなモノとして今回のテーマにある「社会の公共財としての役割が全くない」狭く小さなコップの中の嵐で止まっているからである。

4000円も払って何の話題にもならないプロスポーツに時間と金を費やすメリットを見いだせなくなったから、ボクシングとは距離を置くようになった。

今回は卑近な例から、ある意味で独断と偏見にも見えるかもしれないが、社会学としての要素として働くこととプロスポーツの関係性について述べた。

かなり偏っているかもしれないが、筆者が1年半働いたお金以外の労働の価値について、読者の皆さんはいかがお考えであろうか?筆者の意見とすり合わせてもらいたい。