①では一昨年(2015年)のJ2で好成績を収めるも、翌年のJ1で自慢の守備が決壊しJ2に出戻ったアビスパ福岡の守備ブロックの問題について、筆者は「守備の決壊は他のクラブとアビスパとのサッカーにおけるインテリジェンスの差が出たから」と答えた。

ではサッカーにおけるインテリジェンスとはそもそも何なのか?という話である。

以前、J1の強豪だった頃の名古屋グランパスへ当時J2だった(北海道)コンサドーレ札幌から移籍してきたコロンビア人のボランチのダニルソンが、こんな言葉を残していた。

「J2の札幌とJ1の賞金圏内の名古屋とでは、試合に対して要求される決まりごとの量も質も圧倒的に差があった」

今、両チームが所属しているリーグが入れ替わっているのは皮肉だが、J1の強豪だった頃の名古屋は要求されるプレーというのが、それだけ緻密だったという話である。

このJ1とJ2における要求されるプレーの緻密さと判断の速さ、それとピッチ上の選手がチームメイトとシェアされている自分たちのサッカーの理想像のディテールに対する差というのが、「サッカーにおけるインテリジェンスの差」というものである。

言い換えれば、J2のサッカーは選手の技術も拙く、プレーで初歩的なミスしてしまう稚拙さも走力とスタミナでカバーする、いわば「泥仕合サッカー」なのに対して、J1のサッカーというのは、そもそも最低限の凡ミスすら許されず、そんなミスをむざむざ犯すプレーヤーなど、J1のピッチから即刻淘汰されてしまうくらい繊細で細やかでなおかつ高いレベルの理想像を求められるのが、日本最高峰サッカーリーグであるJ1である。

それとJ2のDFとJ1&日本代表のDFとのインテリジェンスの差というのは「①選択肢の絶対数の差、②その選択肢の差から生まれる判断を峻別(しゅんべつ・即座に最良の選択肢を選ぶこと)する能力、の2つに集約される。

映画のクオリティの差で例えれば、J2のサッカーの質というのは基本的な映画製作のメソッドは知っているが、勧善懲悪な三文芝居で映画監督も役者に「気持ちで演技しろ」というしょうもない精神論で止まっているようなレベル。

一方で、J1のそれは映画監督がカメラのアングルや引きのシーンに対する具体的な理論、ワンカットあたりの役者の映像に対する見せ方を論理的に相手に納得させられるような説明ができているような名作がJ1のサッカーのように見える。

話をサッカーに戻すが、W杯アジア最終予選で、ドーハの悲劇もジョホールバルの歓喜も両方経験している日本代表DFだった井原正巳と言えども、DFのいろはをアビスパの選手に教えるのは、まだJ2レベルの基本的なメソッドまでだった、ということだ。

今回は評論家ぶってサッカーにおけるインテリジェンスとは何か?という根源的な問いにチャレンジしたが、高いレベルでのプロサッカー選手の育成メソッドを構築するのは、アジアサッカーにおける経験値の塊のような井原正巳でさえ、まだ道半ばなくらい難しいものである。それを知ってサッカーの奥深さを痛感した。