①ではかつての野球最強軍団であったキューバが社会体制の崩壊により、その実力も崩壊し過去の栄光になってしまったことを述べた。
今回のキューバの現状を見ると、今の世界は国家という枠組みで捉える「ナショナリズムの限界」を強く感じる。
野球のWBC開催期間中に筆者は後楽園ホールでOPBF(東洋太平洋)タイトルマッチを観戦した。
本来なら東洋でNo.1を決する試合にも関わらず、キャパ2000人の会場の半分も埋まらない閑古鳥状態だった。
試合は日本人選手が判定で勝ったが、正直ボクシングの凋落もあるが、この日本人がタイトルを獲ったところで日本社会全体が「これで日本も世界に認められる」と思い奴はいない。せいぜいボクサーの応援している地元の仲間くらいだ。
マイナーなボクシングだけでなく、他の競技でも同じである。
来年(2018年)平昌五輪があるが、羽生結弦が金メダルを獲得しても、日本人全体がナショナリズムとして世界の頂点に達したというより、羽生結弦個人が凄いといったような日本という国家の枠組みというより、アスリート個人のパフォーマンスに人気が集約されている感がある。
これからの時代、国家という価値観に捕らわれたナショナリズムという概念が少しずつ磨耗されて、個人の能力に人間としての価値が集まっていく時代が来つつある。
今回、野球を始め色々なスポーツを見て、国家という組織の限界を強く感じる次第である。これからは国家より突出した個の時代である。