①ではインターネット社会に変化した現代の日本において、旧来の丸暗記教育の限界について述べてきた訳だが、②ではそれに代わる教育とは何か?について述べたい。

冒頭のタイトルにあるから答えを先に言うがdisciplineに代わる要素とはintelligenceである。

過去の日本の教育が機能していたのは、グローバル化が日本に入ってくる以前で、まだ日本全体が社会の多様性が少ない時代には、丸暗記教育は有効なメソッドだった。

しかし、ネットと同時に日本にきたグローバル化というのは、急激に日本人の価値観や選択肢を激増させることになった。

本来、鎌倉時代に鴨長明が方丈記で「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮(か)ぶうたかたは、かつ来てかつ結びて久しくとどまることなし(世の中は川の流れの様に流動的に状況が常に変化する。そしてその状況は一度たりとも過去と同じシチュエーションに戻ることはない多様性に富んだものである)」とあり、1000年近く前から、社会の状況というのは刻一刻と変化して、その変化に対してその都度最適な判断をする必要がある、と言われていた。

ある程度パターンの決まった状況に答えをオウムの声のように思考停止した状態ですぐに「正解」を出すのではなく、目まぐるしく急変する事態に対して、そのシチュエーションに対しての「最適解」を導き出す。それが、今の日本社会において必要な教育である。

もちろん規律というモノが無用な訳ではないが、規律だけでは最早通用しない時代へと突入したのは確かだ。

intelligenceという言葉で思い出すのサッカー漫画の「アオアシ」である。

主人公の名門サッカークラブのユース選手の青井葦人は、刻一刻と状況が変わるサッカーというスポーツの中で、常にその状況においてベストな判断とは何かと頭の中で葛藤し、もがきながらも最適な判断を出している。

この漫画の中で口酸っぱく言われているのが、今回のタイトルにあるintelligenceだ。

別に葦人の所属している東京エスペリオンのユースは規律の存在を批判してはいないが、現代サッカーにおいて規律はあって当たり前。それにプラスアルファでどうやって知性を若年層の時期に叩き込むかというのが、この漫画の深いテーマとなって表現されている。

今回のテーマは人間の深層心理に潜む難しい問題だが、正直すぐに答えが出るものではない。しかし、疑問を持って人生を生きるのはしんどいことだが、この疑問を解決しないとスポーツの世界も一般のビジネスも敗れ去ってしまう。このブログを読んで下さる皆さんも知性とは何か?ということを考えて下されば幸いである。