①では筆者がJリーグサポの飲み会で湘南サポと、湘南とジェフのフロント論について意見をぶつけあったのであるが、それを見ていたFC岐阜のサポーターがつぶやいた。
「湘南は戦力としては劣っていても、縦の意識と運動量のサッカーという美学に特化していて、その哲学に対してクラブのフロントは良くも悪くも頑固だ。一方で、ジェフは資金面では豊富だから値段の高い選手もたくさん雇える。しかし、クラブに強化の哲学がなく、フロントの持つクラブの方向性がフラフラしすぎてブレまくっている。どっちも両極端で足して2で割ればちょうどいい」
お互いに納得した表情になったのは言うまでもない。
その飲み会とは別に、ある日筆者はツイッター上で別の地域リーグのスタジアムDJと、何故かテレビ論について意見を出し合ったことがあった。そのDJは今のテレビは「高卒・50代・専業主婦」を対象とした番組制作に、専業主婦が絶滅危惧種になる今は限界がある、と述べた。
筆者としては30年前の昭和のテレビ制作に限界がきていると述べたが、DJは昭和のテレビは強引な設定もあったが、ものづくりとしての価値はあったと反論した。
しかし、お互いテレビ番組に関して言えることとすれば「つまるところ今のテレビには『哲学』や『軸』になるモノがスッポリ抜け落ちていて、ただカネになればいいという番組ばかりになった。しかし、そうした映像はネットで代替可能なので、相対的にテレビの映像が膨大なネット動画の海に淘汰されている」というところに落ち着いた(一部で面白い番組もあるが)。
翻って、話はサッカークラブのフロント論に戻る。先ほどテレビの番組制作というのが作り手においての「哲学」や「軸」を失うと、そうした映像はネットの大波に呑まれてしまうという話をしたが、サッカーのフロントも同様だ。
ジェフのように、ただカネの力で選手を集めて勝てばいいというクラブはJ2という泥沼のような過酷な環境が大波のように押し寄せて、金の亡者のようなテレビ番組同様に呑まれてしまうだろう。
湘南のように自分たちの哲学に固執しすぎて、融通が効かなくなるのも考えモノだが、ジェフのようにカネでなんでも買えるという発想で、クラブに最も重要な「軸」の構築をおざなりにするのはもっと問題である。
ジェフの黄金期を築いたイビチャ・オシム監督が「それまでバルサが築き上げてきた時間を無視し、(日本人は)まるでそれを(カネで)買えるモノだと錯覚している」とサッカービジネスにおける拝金主義に警鐘を鳴らしていたが、そのお膝元のクラブがその拝金主義に汚染されていたのは全くもって皮肉だ。
フロントが求めるのは値段の高い選手を買う時の数字ではなく、「哲学」であり、一本スジの通った「軸」である。カネというモノはそのクラブの哲学という名の軸を構築するための手段であって、カネそのものが目的ではない。本当に大切なモノを見失ってはいけない。