①では年配の方にはややもすると挑発に聞こえることに感じることを書いたかもしれないが、今回はその昭和の価値観が導き出した過去の成功のプロセスが、平成も来年(2018年)には30年目になり現在のスポーツ界(ひいては一般の労働環境)を苦しめる要因になっているのでは?という根拠を説明したい。
スポーツの世界で昭和の価値観に行き詰まりが出てきたのは色々あるが、その大きなモノに2007年の高校野球部に対する特待生問題とドラフト指名時での裏金問題がある。
正直このニュースを聞いた時に日本のマスコミに対して「馬鹿じゃねーの?」と感じたし、空気が無くても生きていけるが野球がないと死んでしまうと公言していたラジオの神様・伊集院光は「特待生問題に対して日本のメディアの対応は最低だ」と憤っていた。
筆者も高校の野球部をショボい辞め方したが、その学校にもシニアリーグの特待生はいたし、あの頃は野球で学費免除を目指す高校生はむしろ親孝行だ、というのはみんな持っていた常識だった。
それをこうしたニュースとして扱う当時の既存メディアやそれを容認していた高校(の教師)は自分たちの利益を守るだけで信用できない組織であると、日本の一般市民に認識させた事件だった(しかも高野連は何の罪もない特待生部員を裏切り、出場停止にさせて責任をなすりつけるという愚行の上塗りまでした)。
こうして物心ついた頃から野球しかやってこなかった特待生の高校球児は、野球以外の価値観から軌道修正できないという二次災害も発生した。
それ以外に昭和の価値観の行き詰まりと言えば、大阪のバスケ部員の顧問による体罰を苦にした自殺である。
スポーツとは直接絡まないかもしれないが、先日の電通・新入社員の長時間労働を苦にした自殺で経営陣の書類送検があり、それを恐れた経団連が残業時間の規制を考え始めたという話があった。
しかし、バスケ部員が自殺して初めて「体罰=顧問の厳しい愛情表現」から「体罰=悪」に変わったという図式もそうだが、若者が自殺して犠牲にならないと、学校にしろ経団連にしろ日本の特権階級は若者を取り巻く環境を変えようとしないという部分では共通していて、そうした社会にいら立ちを感じる。
昭和の価値観がどん詰まりになり、変わった組織というのは箱根駅伝で3連覇した原晋監督率いる青山学院大学陸上競技部の改革の成功を見ても分かる(大学も権威だろうというツッコミはさておき)。
「4年神様、3年貴族、2年平民、1年奴隷」という昭和の価値観では21世紀の日本陸上界は衰退すると考えた原監督はこうした身分制度を撤廃して、各学年の立場をフラットな関係性にしたことにより栄光を掴んだのは有名だ。
筆者も大学でもスポーツをしていたが、こうした常勝という圧をかける大学OBの存在が鬱陶しいことこの上ないので部活動には入らなかったが、こうした大学内の時代錯誤な身分制度という昭和の価値観はちゃんと消すべきであるし、それを消すことにより部を再生したことは意味がある。
他にも前述したことに繋がるが、スポーツでの長時間練習(雇用における長時間の残業)も競技の技術習得(労働における生産性)の低下や集中力・QOL(生活の質)の欠如など、こうしたやり方がスポーツでも仕事でも現代ではマイナスに働くことが分かっている(スポーツの場合、大会前の追い込み練習の期間は別だが)。
またそうした昭和の価値観で、学校が親に子供への教育は神聖なモノだから無償の愛情で勉強やスポーツのサポートをしろ、そして親の持つ金や時間を最大限提供しろという。そして若くて真面目な親はそれに苦しめられる。
しかし今の時代、こうした親の無償の愛を学校側が2000万円という授業料という形で求めるから急速な少子化が進行するのだ(しかもそうして大学を奨学金で入学したのに、大卒でも非正規雇用で返済できなくて若者やその親が自己破産に陥る、という学校が若者を食い物にするという社会問題が2016年は1万件あった)。その金額を学校が要求するなら、大卒で非正規雇用になったら大学側に損害賠償されても仕方ない。
スポーツに戻るが、親の手厚いサポートを求める少年野球などの競技人口が激減している。もはや親の無償の愛情を指導者が求めると、チーム(学校)という組織が維持できなくなる時代だ。
こうして今回は長くなったし少々脱線もあったが、旧来型の昭和の価値観が今の日本社会を苦しめている、という話をした。少子化で若者が数少ない労働資源であることをスポーツでも雇用でも気付かないと、巡り巡って日本社会全体がどん詰まりになることということに旧来の価値観の人は気付いてもらたい。
最後にドイツ哲学の偉人ニーチェの言葉で締めくくる。
「脱皮できない蛇は死ぬ」