①では野球という相手よりたくさん点を取って勝つという唯一無二の勝利への真理に対して、その頂を登りためのプロセスが実は無数にある。

そうした真理に向かい、それぞれに野球人が持つ1つ1つの勝利へのプロセスが言葉になり、それが文化へと昇華していくという話をした。

②では野球と同様に、相手よりたくさん点を取ることによって勝敗をつけるサッカーからこのことを見ていきたい。

以前、元日本代表の中村俊輔が欧州に移籍した際、こんな言葉を残した。

「サッカーで勝つことにおいて、理想のスコア(1点差限定)というのも欧州では国によって違う。同じラテンでもイタリアは1-0で勝つのが理想で、スペインは5-4で勝つのが理想だ」

「イタリアはカテナチオと呼ばれる堅守が理想で、スペインは超攻撃的サッカーが伝統だ」

と、要約するとこんなことを言っていた。

歴史も伝統もあり、世界中で愛されているサッカーでも理想の勝ち方に「お国柄」が見えるのが興味深い。ここでも勝利という唯一無二の真理を獲得するプロセスが無数にあるのが分かる。

以前ある人が「人間における人生の結論とは何か?それは『死』である。始皇帝でもナポレオンでも人は皆、必ず死ぬ」

「では、明日死んでもいいですか?と問われたらどうします?皆さん死にたくないですよね」

「既に(死という)結論があるのに、『生(せい)』というプロセスにこだわっている。そこに人生の意味がある」と言った。

極端な考えかもしれないがスポーツにおける考えも同様で、死(結論・結果)が「勝利(不本意ながら敗北で終わる時もあるが)」だとするならば、生というのが「(その結論に行き着くための)プロセス」である。

そのプロセスを説明するためのツール(道具)が「言葉」であり、そのそれぞれが持つ言葉の集合体が「文化」になりうるのだ。

死という避けられない結論に対して、生というプロセスに人間の意味があるように、スポーツもまた勝利という名の結論に対して、人生における生の役割を果たすプロセスに、スポーツという本来なら生きるために必要のない活動にも意味が出てくるのだ。

だから昨今のスポーツ界に対し、スポーツがお金になるからと言って、プロセスを軽視して勝てばなんでもありのような「結果至上主義」という考え方が1番ダメな考え方である。

そうした思考は文化が貧困になり、スポーツを取り巻く人間を不幸にする。

そしてそうしたスポーツの試合というのは、往々として作業のようなマンネリを生み、そこに勝利はあっても感動はない。

もちろん最初から負けるためにやってもダメで、そこがスポーツが現代における禅問答みたいなところだが、今回のテーマではそれに言及するつもりはない。

野球であれサッカーであれ、それぞれの野球(サッカー)人が持つ理想のプロセスを言葉にしたモノが文化なのである。