今回のブログテーマはのっけから筆者らしくない大仰なモノだが、とりあえずご静聴願いたい。

さてさてこのテーマにある「文化=言葉」理論というのは、筆者のブログテーマにあるスポーツのみならず、音楽や映画・お笑いや漫画にも共通する現象である。

ただ、このブログは基本的にスポーツのブログであるから、スポーツ中心に取り扱っていきたい。

そうした中でのスポーツにおける文化というモノが言葉という細胞によって構成されている根拠について述べたい。スポーツ文化と言葉との関連性とは何か?

ここで1つ例えを挙げたい。野球の試合のシーンで自分のチームが先攻だとして、1回表に先頭打者が四球で出塁した。

読者であるあなたが監督だとして2番打者に何を求めるか?という話である。

あまりに単純すぎて拍子抜けかもしれない。「なんだよ!独眼鉄!そんな子供でも分かること何故俺(読者)に聞く⁈」とプチ怒りがあるかもしれない。

初回に先頭打者が出塁。得点の量を競うスポーツならば先制点が重要なのは言わずもがな。大事なランナー。必然的に2塁に送りバントと考える読者は多いはずだ。

しかし、意外と全員がそう考える訳でもない。

以前にもこのブログに書いた高校野球の名将の徳島・池田高校の監督だった「阿波の攻めダルマ」こと故・蔦文也氏はセオリーに無い考えだった。

「自分はバントは好かん。野球は攻撃じゃ」と甲子園でどんなに大事なチャンスのシーンでもバントはしなかった。当然こうしたシーンでもいきなり強行策だった。

今更であるが、野球というスポーツはどれだけ相手よりたくさんの点を取るかで勝敗(優劣)を競う。要は点を沢山取って勝ちゃあいいのである。そんなことは当たり前である。

しかし、そんな野球の勝利というただ1つの真理(たくさん点を取る)に対して、点を取るためのプロセスというのは複数あり、それぞれの野球人が自分の理想的な得点を獲得するプロセスを言葉にして表現している。

それが今回のテーマである「文化とは言葉である」という部分に繋がっていく。②でもこの部分を考えていきたい。