唐突な話であるがスポーツノンフィクションの名作に「江夏の21球」という話がある(最近では角川新書からも復刊した)。40代で夭折したスポーツライター・山際淳司の作品で、スポーツが好きなこのブログの読者にも読んだ経験のある人もいるだろう(関係者の証言を集めてビデオ化もされた)。

1979年(昭和54年)の日本シリーズ広島カープvs近鉄バッファローズの日本一を決める第7戦で広島が1点リードの最終回に、広島の絶対的守護神で日本球界にストッパーという概念を定着させたパイオニア・江夏豊をベンチは投入する。この時の最終回の江夏の投球を書いたのが「江夏の21球」だ。

このあまりに有名なスポーツノンフィクションの一方で、あまり知られていない短編で「水沼四郎の21球」という作品もある。こちらは織田淳太郎という作家が「捕手論」(2002年・光文社新書)という本に記されていて、本のタイトルにあるように捕手の様々な特徴やドラマを記した隠れた名作である。江夏の21球というドラマでは実際に江夏のボールを受けていた広島の捕手・水沼四郎の視点から、このドラマを分析した話だ。

この両作品を読み比べると面白いのだが、同じシチュエーションでのプレーでも江夏(投手)と水沼(捕手)では、プレーに対する捉え方やお互いのプレーに対する意図に食い違いがあるのも、逆に興味深い。

しかし、このドラマの最大の山場である一死満塁で近鉄ベンチが出したスクイズのサイン。三塁ランナーのそのシーズンのパリーグで27盗塁を決めた走塁のスペシャリスト・藤瀬史朗が最高のタイミングでホームに突入するシーンがある。

この時、捕手である水沼が本能的な危機察知能力で立ち上がりボールを外させようとする動作と投手・江夏がその天才的な左手首の柔らかさでとっさにカーブをウエストしたプレー、そしてまさかカーブでのウエストが来るとは夢にも思わなかった走者・藤瀬と打者・石渡茂の四者のプレーが凝縮したのが「江夏(&水沼四郎)の21球」である。

この時、セオリーでスクイズをウエストするには外角高めのストレートでのボール球がほとんどでカーブでのウエストはありえない。しかし、日本一の舞台で投手・江夏豊と捕手・水沼四郎が超一流のスペシャリスト同士がそれぞれ「自分の判断でこのプレーをした」というとっさの動きが奇跡なイメージの共有と連動性を生み出し、それが日本最高峰のスポーツドキュメンタリーへと昇華した。

そこで、今回のテーマである「イメージの共有と連動性」という話である。今回の話で野球というスポーツで超一流のスポーツエリート達が、(たまたまとっさの判断とはいえ)お互いイメージを共有したことが球史に残る名勝負を演出した結果になった。

しかし、それは野球という集団のボールスポーツで最も重要なのは、個々の才能ではなく(この場合)投手・捕手・その他の野手とのイメージを共有したプレーということが分かる。

そうした中で筆者はここ数年サッカーやバスケットを見ているが、こうしたイメージの共有からくる動きの連動性というのが集団球技では最も大切なことであるというのを実感する〈②に続く〉。