①では本来のこのブログのテーマとは関係ない食品偽造のプロセスが、実は体罰問題と同じだということを書いたが、②ではその具体的な部分を見ていきたい。
①で食品偽造というのがネットのない時代のナァナァが21世紀にも通じるという慢心から来たモノだと言う話をしたが、実は体罰問題も同じである。
もともと「体罰=悪」という考え方は7〜8年前の大阪のバスケ部員の体罰を苦にした自殺からコトの発端が始まったが、それ以前はむしろ「体罰=愛情」みたいな空気もあった。
この問題も昭和の時代にあった「昔のやり方」が現代のネット社会において拒絶されたという意味では、①の食品偽造と一緒だ。
誤解のないように言いたいが筆者も体罰反対派である。指導者が口ではなく手を出すのは、本人の知的な言語能力がない、いわば無能な人間だと言うことを自分で露呈しているようなモノである。
そのバスケ部員が自殺する前は日本社会も既存メディアも体罰についてナァナァだったが、こうした事件後(バスケに限らず)どのスポーツ強豪校もコンプライアンスという名のもとにピリピリした状況になっているのは周知の通りだ。
なきぼくろの名作「バトルスタディーズ」でもDL学園主将の烏丸がチームの体罰撤廃に悩むシーンがあるが、学校の伝統か後輩の未来かで苦悩するのは17歳にはあまりに荷が重い悩みだ。
そしてその悩みが衝撃的な結末を迎える。
ただ、結果至上主義と体罰撤廃というのを両立させようというのはある意味で無理ゲーである。
今までナァナァで無責任だった学校の理事会も既存メディアも勝利ばかり煽って現場の指導者に体罰させないのを押しつけるのもかなり無理がある。
もちろん体罰がなくても勝利は手にできるだろうが、それは現場を追い詰めるということも忘れてはいけない。①の食品偽造も②の体罰問題もいろいろな要素が絡みあった複雑化した問題である。