ここ数ヶ月こうしたスポーツのブログを書いていて思うのだが、今の時代地球が小さくなったというか、国境の境目がどんどん緩やかに溶けてきているように見える。

かつて日本社会において、国家の規制というのは絶対的な権威として揺るがない例外のない存在だった。

だから国の規制でダメなものは例外なくダメであり、国家の裁定に対して個人の感情が入り込む隙間など蟻の穴ほども無かった。

筆者がやってきたボクシングでは網膜剥離(もうまくはくり)になったら、コミッション(国家)の基準が絶対で、辰吉丈一郎が網膜剥離になった時に「(網膜剥離になっても)世界タイトルならOK」と辰吉の試合を放映したいテレビ局と自分達の面子を守りたい国家の末端にあるコミッションの仲裁案を繕った滅茶苦茶なルールもあったが、今思えばあの裁定もグローバル化の前の「国家の規制&裁定=絶対的権威」という時代の象徴のような事件だった。

しかし、この辰吉の試合の頃に別の2つのイノベーションが起こり、この2つの爆発的なインパクトが国内の規制&裁定を絶対的な権威から形骸化した紙屑に変えてしまった。

それが1995年の野茂英雄のメジャー挑戦などに象徴されるグローバル化と同じ1995年のWindows95に象徴されるIT革命である。

今でこそこの2つは常識として捉えられているが、当時としてはまさに「革命」であった。

インターネットによるIT化により、中間コストが必要なくなったことにより、流通コストが安くなりその流れで航空運賃なども安くなった。

そうしたIT化の恩恵を受けてグローバル化は加速し、ヒト・モノ・カネがどんどん流動化した。

そうしたことにより国内の規制というのが無意味な時代になった。②でもその部分を掘り下げていきたい。