前回はプロレスの話から日米のスポーツの魅力の違いについて述べたが、その質の差というのは何も格闘技だけではなく、球技も同じだ。
日本の国技とも言える野球というスポーツでも、①で述べたような違いが見えてくる。
昔、三田紀房の野球漫画「スカウト誠四郎」で主人公の広島カープ・スカウトの武光誠四郎が、優秀な高校球児が野球部に馴染めず、父親がアメリカに連れて帰るという話があった。
そのアメリカで医者をしている父親が「日本の野球は陰湿だ。その点アメリカの野球はとにかくエンジョイ。選手も観客もハッピーだ」という言葉に対して、スカウトの誠四郎は、
「日本には甲子園があります」と前置きした上で、「昔はそうした面もあったが、今の高校野球はネガティヴな情報があると選手が集まらない」「甲子園出場はあくまで結果。三年間仲間とともに努力することに意味があります」と答え、
「アメリカ人だけではなく、日本人も野球を楽しんでいます」
「義理も人情もあるしキメも細かいし、そしてちょっと感傷的。それが日本(野球)の魅力です」とあった。
この誠四郎の言葉もそうだし①の武藤敬司もそうだったが、日本のスポーツの魅力というのは決してお金や時の権力の力だけではない「何か」が隠れている。
アメリカのスポーツの魅力を「窮屈で苦しい日常を一時(いっとき)だけ解放する『完全な非日常』」に対して、
日本のそれは「今は苦しい日常を歩んでいるけど、そうした日常を歩んでいくといつかいいことがある」いわば「長い時間歩んでいくと見えてくる『日常の延長線』上の先にある幸せや喜び」である。
感覚的にわかりづらいかもしれないが、日米のスポーツ文化の違いというのはそういうところにある。
参考文献 R25 2008年2月22日号