スポーツにおけるジェンダーとして五輪競技というのは「男女の性差による差別の撤廃」を意識して性差をなくすようにして、日本のスポーツ界というのは、それに対して(悪く言えば)成り行きで後追いしてきただけというのが、今までの歴史を見ればわかる。

1980年代に五輪で柔道も女子が出場が可能になり、そこから女子も格闘技をするというのが市民権を得たことになった。

それまでは女子の格闘技というのは女子プロレスなどかなり限られたジャンルに限定されていたのが、五輪で女子柔道が採択されて女子格闘技という性差の壁が急速に崩れていった。

その後21世紀に入り、女子格闘技はレスリングやボクシングも女子競技として認められ、「ジョシカク(女子格闘技)」という言葉も生まれるくらいになった。

あと今ではスキーのジャンプ競技も高梨沙羅のように女子が出場して当たり前になったが、昔は日本でスキージャンプというのも「危ないから」と言う理由で女子は参加できなかった。

そのため女子選手は常に金がなく、スキー協会も選手層の拡大よりも事なかれ主義で保身に走り、ずっとジャンプの女子選手の苦しみを見て見ぬふりをしてきた。

その後ヨーロッパのスキー連盟から「日本のジャンプ競技について女子選手の参加を打診する」という一報が届き、風見鶏の日本協会は慌てて女子選手を派遣した。

こうした動きは筆者が見てきたボクシングで女子選手が採択された時と全く同じである。

以前筆者が尊敬するブロガーのちきりんさんが「日本の一般人は海外の一般人に比べるとかなりレベルは高い。しかし、日本のエリートは海外のエリートに比べるのも恥ずかしいくらい情けない状態だ」とあったが、本来ならエリート層にある日本のスポーツ界のトップに横たわる、保身からくる事なかれ主義というのは本当にどうしようもない。

話をジェンダーに戻そう。今まで見てきたように昔はマラソンも格闘技もジャンプも女性がやるのはご法度というのが「常識」だった。

しかし、そうした常識という名の壁を先人達の努力で壊してきた歴史があった。

こうしたジェンダーの話を見ても、「常識」というのは変わるのである。