①ではマネーゲームが続くプロサッカーの世界で独自路線を貫くアマチュアクラブのことを紹介したが、今回は前回以上にマニアックなボクシング東洋王者を紹介したい。

前回今をときめくマニー・パッキャオのシンデレラストーリーを紹介したが、実はパッキャオ出現前の1990年代のフィリピン人ボクサーというのは評判が芳しくなかった。

やる気がない、ボディーを打ったらすぐ倒れると、フィリピン国内王者とのノンタイトル戦を主催しても、以前の試合は閑古鳥が鳴いていた。

そんな中で異彩を放っていたフィリピン人東洋王者がいた。彼の名はジェス・マーカ。

マーカのボクシングはフィリピン人特有の柔軟な筋肉とマーカにしかできない独特な体重移動で、当時の突貫ファイトを好む日本人ボクサーを、マーカは自由自在なアウトボクシングを使って文字通り「カモ」にしていた。

1997年4月に後楽園ホール初見参のマーカは東洋バンタム級タイトルを獲得し、その後も選手層の厚い日本人のバンタム級トップボクサーのまさに「壁」となって立ち塞がり、マーカに勝てない選手は世界に挑戦する資格はない、という暗黙の了解も業界ではあった。

そしてこの頃のマーカは誰が呼んだか「東洋の門番」と称されるようになった。

キャリアでマーカはノンタイトルで、あからさまな地元判定に屈したこともあったが、2003年5月18日に後の世界王者になる長谷川穂積に「文句無し」の判定負けで敗れるまで東洋タイトルを保持し、外国人は2勝すれば強豪とされる日本のリングで、通算11勝(3敗1分)という驚異的なレコードを叩き出した。

しかもKO勝ちは0。これはいかに地元贔屓のジャッジに玄人好みなマーカのテクニックが支持されていたか、というのを物語っている。

マーカは日本円で50万円ほどのファイトマネーに目がくらみ、タイで他団体の地域タイトルに出場したことで1000万円クラスの世界戦のチャンスを棒に振ったとも言われた。

しかしあの当時、ウィラポンや辰吉丈一郎と言ったキラ星のようなバンタム級世界王者に対して、文字通り「東洋の門番」として睨みを利かしていたジェス・マーカという男の壁を越えるのは難しかった。それだけマーカは存在感のある男だった。