人生のチャンスというモノは必ずしも自分の望んだベストなタイミングで訪れるモノではない。チャンスというモノはいついかなる時に転がりこんでくるかわからない。いわゆる「チャンスは前髪(しかない)」というヤツである。それをこれから紹介したい。

まず筆者が若い頃見まくったボクシングからいきたい。

昨年(2015年)GWに全世界を揺るがす世界タイトルマッチがあった。そう。フロイド・メイウェザー対マニー・パッキャオの世界ウェルター級タイトル統一戦である。

試合結果は(メイウェザーらしい)凡戦の末の判定勝ちだったが、論点はそこではなく、敗者のパッキャオの(敗れはしたが)サクセスストーリーである。

この試合で両者3億ドル(およそ360億円)以上の空前絶後のメガファイトになったが、パッキャオ自身は元々、デビューした時は祖国フィリピン国内では赤丸急上昇な本命馬ではなく、むしろ無印の大穴ダークホースだった。

フィリピン国内でひっそりとデビューしたパッキャオは1996年に19歳で東洋フライ級(50.80キロ)王者に、1997年に20歳でWBC世界フライ級王者になったが、当時は東洋圏に選手が集中する軽量級での世界王者パッキャオの名前は、東洋圏のボクシング関係者に知られる程度で、アメリカ人にとっては「パッキャオ?Who?」だった。

そんなパッキャオもタイでの初防衛に失敗。そのすぐにカムバックを表明し、再起ロードを歩んだ。

この時、今では普通になったがパッキャオは減量苦からいきなり階級を一気に3つも上げてスーパーバンタム級(55.34キロ)に転級、周囲からは「減量からの現実逃避」と揶揄されたが、パッキャオはその直後に世界ランカー対決で圧勝し、うるさい周囲を自らの拳で説得し、この階級での存在を東洋で示した。

とはいえ、ここまでのパッキャオは単なる単なるアジアの元世界王者に過ぎず、そんなボクサーなどアメリカの有力ボクシングジムにはゴロゴロしていて、いわゆる「その他大勢」の1人でしかなかった。

そんな東洋圏でくすぶっていてチャンスに飢えていたパッキャオ。その喉から手が出るチャンスはいきなり訪れた。

2001年にパッキャオがロスの有力ジム・ワイルドカードジムでたまたま練習中に、いきなりIBFスーパーバンタム級タイトルのオファーが舞い込んできた。わずか2週間後にロスで試合する話だったが、本来の挑戦者が試合直前の追い込みで怪我でのドクターストップ。主催者としてはチケット販売後の試合を中止にできないから代理ができる選手なら誰でもよかった。

そんな全く猶予期間の無いいきなりのチャンスに、階級を上げて減量の心配も無く、負けても失うモノのないパッキャオは即答で快諾した。並の選手なら準備期間があっても難色を示してもおかしくなく、その上ただでさえ評価の高い世界的な強豪を相手に、いきなりの大舞台で躊躇するのが当たり前。

しかし元々3度の飯より殴り合いが大好きで、笑いながらリングインするようなパッキャオ。並の選手とは胆力が違う。

この試合でパッキャオは長年チャンスに飢えた鬱憤を爆発させて圧勝。こうした降って湧いたチャンスをモノにして、この時初めてボクシングの本場アメリカに自分の名を示した。その後のシンデレラ・ストーリーは皆知っているのでここでは書かない。

パッキャオは東洋の無名時代はファイトマネーをギャンブルですって、身売りではないが自身のマネジメント料を3万ドル(およそ360万円)で日本の関係者に持ちかけるようなボクサーだった。

しかし、今では前述の通り100億円以上稼ぐ億万長者に成長した。

そのパッキャオを貧乏な無名ボクサーか億万長者かに分けたのは、いきなりの幸運という名の「チャンスは前髪」というヤツである。