このブログを書いているのは2016年2月5日なのだが、周知の通り暖冬だったこの冬に、野球ファンを凍りつかせるニュースが舞い込んだ。

「清原和博、覚醒剤使用で逮捕」

個人的にこの件に関しては、このブログがupされるGW明けにはマスコミで事件の真相が、ある程度語り尽くされているだろうからここでどうこう言う問題でもない。

要は論点は元トップアスリートのスキャンダルという、犬の糞にまとわりつく銀蠅の様な、(文字通りクソな)マスコミのゴシップ記事を書くのではなく、今のスポーツ界の「歪み」をどう矯正するかという部分である。

この一件に関して容疑者に2つの感情が筆者の心に芽生えた。1つはご多聞に漏れず「怒り」。普通に「有名選手としての自覚を持て!」と思った。しかし、それとは違うもう1つの感情もあった。

それは「可哀想」である。勿論容疑者は容疑が真実ならば、しかるべき刑に処されるべきだし、罪自体は実際に(本来なら)同情されるべきではないのは百も承知だ。ましてや筆者は容疑者のファンでも何でもない。

では何が可哀想なのか?筆者自身この事件の前から容疑者に関して同情していた部分があった。

甲子園のヒーローでありながら、プロ野球では希望の球団である巨人に入れず西武に入団(この時マスコミの格好の餌になるような因縁が、ある意味ここがボタンのかけ違いになって悲劇を生む土壌になってしまった)。

それでもプロとなりプライベートを抹殺された衆人監視での社会人生活突入。まだ成人になっていない青年に過度な報酬と、それを遥かに上回る並の人間なら精神が破壊する様な重圧。

書き足すだけでも恐ろしいプレッシャーの中で、19歳の青年に与えたミッションは「(ついこの間まで高校生だった人間に)百戦錬磨のプロの投手相手に『結果を常に出し続けろ』」だった。〈②に続く〉