①ではプロ野球が単なる娯楽から、ビジネスの一種の商品として扱われるプロセスとして、その競技の本質から逸脱してしまったことを述べたが、②では他の競技に対しても言及してみたい。
野球の他にそうした要素が出てきてしまったスポーツでは、野球同様に国技と呼ばれる相撲である。
相撲の場合、何が現金化の流れが競技の本質を損なったかと言えば「待った」である。
2008年に玉ノ井親方(元大関・栃東)が現役引退後に相撲の取組を解説した時に「浅香山親方(元大関・魁皇)のように呼吸を合わせない相手は嫌だった。呼吸がズレて待ったを2回すると審判部室に呼ばれて説教される上に、罰金10万円(!)。でも待ったには力士が呼吸を合わせる部分の駆け引きという魅力がある。だからテレビ放映などの問題で待ったを制限するのは分かるが、力士が呼吸を合わせる醍醐味にも注目してもらいたい」と仰っていた。テレビ放映で相撲も興行の要素が強くなったことにより、本来の魅力を失った部分も見える。
また今年(2016年)は五輪イヤーだが、注目競技であるマラソンにも現金化の加速にもよってつまらなくなった話もある。
マラソンの世界でそれまで黙認されていたラビット(ペースメーカー・試合前半に敢えてオーバーペースで飛ばして、有力ランナーの走るペースを構築することにより、レースの高速化を促すことが狙い)を日本陸連が2003年に公認することで、確かにレースそのものは高速化した。スピードを競う競技でそのスピードが縮まるということは、競技者にとってアイデンティティそのものだ。
…ところが…
ラビットを公認して高速化したマラソンというのは、旬の季節を全く考えずに機械化と顧客のニーズだけを考えた、単なる商品みたいな促成栽培の野菜のようなモノで、そうした野菜に季節の恵みを感じない人工的な要素しかないのと同様に、ラビットありきのマラソンというのもトップランナー同士の駆け引きがなくなって、単なるスピードの優劣だけになり、無味乾燥として面白くなくなったとも言われる。
今言った例えのように、スポーツがビジネスとして(言葉は悪いが)金儲けの要素が強くなることにより、そうした部分が逆に競技の魅力を損なってしまうこともある。スポーツビジネスという世界は試合の運営を司る人間が、目先の利益に囚われない高いレベルの視野を持ってその運営を遂行されないといけないのだ。