前回は韓国サッカー界の八百長について長々と述べたが、何故日本のプロ野球の野球賭博の話なのに、韓国サッカーの八百長問題の話なのか?である。

それは①で述べた韓国サッカーの八百長問題も日本のプロ野球の野球賭博も仕組みは一緒だからだ。

前に日本のスポーツ界は試合に勝つために合理化しすぎて、合理化してはいけない学校の授業まで省いたという問題点を指摘したが、今回の野球賭博の問題も①で述べた韓国サッカー界の腐敗の温床とまんま同じである。

天下の名門である読売巨人軍のユニフォームに袖を通すことができたということは、野球賭博に関わった選手も相当な野球エリートであろう。

しかし日本のスポーツエリートも①で述べた韓国の運動組と一緒で、物心ついた頃から野球しかやってない生活しかしてないはずである。

しかし今の日本のスポーツ界は巨人に限らず「スポーツに問われるのは結果のみ」というゆがんだ結果至上主義が蔓延(まんえん)していて、結果を残せない選手を容赦なく切り捨てる社会になった。

プロの世界に情けは禁物なのは分かるがあまりに過度な結果至上主義は、①の韓国と同じで選手を裏の世界に誘う(いざなう)ことになる。

川上哲治氏が巨人軍の監督だった頃は選手に「選手の前に一社会人であれ」というミーティングでも、試合分析より人間教育や人生訓を重視していたというが、今の巨人の野球賭博問題というのはこうした川上イズムが無くなってしまったということの証左である。

基本的にスポーツに限らず若者に「我慢」や「忍耐」という選択肢を強いるには、「将来には明るい希望が待っている」「自分は期待されている」というポジティブな要素があって初めて成立する。

しかし、先の野球賭博に関わった若い選手達には彼らの野球生活は期待や希望が全く無く、あるのは「人材も  材料だから  使い捨て」という愛情も希望もない首脳陣という老人社会の生け贄(いけにえ)である。そこから悲劇は始まった。

もちろん犯罪に関わった選手も成人である以上然るべき刑罰に処されるのは当然だが、日本でも韓国でも行き過ぎた競争原理主義というのは巡りめぐって、自分達も傷つけることになる。