筆者もこうしたスポーツビジネスのブログをつらつらと書き連ねて2年半が経つ訳だが、前回書いた陸上の長距離界が箱根駅伝の熱狂を取るか、五輪でのマラソンのメダルを取るかという二者択一があるように、他のスポーツにも色々と悩みや葛藤・ジレンマが横たわっているのである。

このブログのヘビーな読者なら分かると思うが、サッカーという世界はプロ化してから大きく競技の中身が変わってしまった。

もちろんプロ化して良くなった部分も沢山あるが、競技の内容に変化が出た部分がある。

筆者の応援するジェフ千葉が昨年のプレーオフを勝ち抜いていけたかは、このブログ(2015年10月25日執筆)を書いている時点では分からないが、筆者も会場でジェフのサッカーを見ていて気付いたことがある。

ここ何年か日本に来る外国人選手に要求されるスペックに変化が出てきたのだ。

ひと昔前にJに来た外国人助っ人というのは、古い言葉で言えばファンタジスタ(死語…)、いわば仕事の内容で言えば人びと(観客)を魅了する芸術家タイプが重宝された。少し前のJのピッチではファンタジーの要素が色濃かった。

ジェフで言えば「マスロバル(90年代のジェフの名選手)の左足のプレースキックが魔法使いの杖のようだ」と例えられていた。

しかし今のJではそうした夢を見る芸術家のようなファンタジーの要素は取り払われ、兵士の白兵戦のような90分間走りまくってハードワークできる要素が求められている。またクラブも代理人もそうした走力のある選手に高値をつけるようになった。

昨年のジェフだったらブラジル人のキャプテンのパウリーニョのような派手さはないけど、走って献身的なプレーができる選手である。

今の時代、昔のマスロバルや2014年のジェフにいたケンペスのように、超人的なファンタスティックなプレーやゴール前の決定力があっても、守備をしない選手はピッチから淘汰される時代になった(もっともマスロバルがいた90年代のJリーグは週2試合というハードな日程だったので、守備をサボらないと体を壊しかねないという事情も考慮しないといけないが…)。

こうして今回は、今のJのピッチでもファンタジーとマネーの狭間の問題を述べたが、長年サッカーという世界を見ていると、ピッチ上で要求される質の変化を感じるモノである。