今は2015年の秋(10/25)の朝にこのブログを書いている訳だが、順調にブログのUPが消化されれば、この記事は2016年の1月3日にUPされるはずである。

この日は冬のスポーツで最も注目される箱根駅伝の復路がある日である。

しかしこの箱根駅伝もそうだが男子の陸上長距離という世界は、前回ブログで書いたサッカー界の過密日程のように、スポーツのビジネス化によって伝統やドラマ(ファンタシー)を取るか、収益(マネー)を取るかという歪みが強く出ている世界である。

筆者は比較的、大学スポーツというジャンルに対して興味は薄い人間だが、だからと言って箱根駅伝に価値がないとは思わない。

しかし今年はリオ五輪があるのだが、昔は日本のお家芸だった男子マラソンの失墜が言われて久しいのも事実だ。

以前このブログでも書いたが、今のマラソン界は激変しつつある。

川内優輝や藤原新といった実業団チームに所属してない無所属派ランナーの台頭や、以前は日本の陸上界では黙認されていたラビット(ペースメーカー)が2004年のアテネ五輪の選考レースに公認され、レースそのものが高速化したという背景がある。

しかし、今の陸上長距離界で男子マラソンで結果が出てないのは、箱根駅伝に長距離走のトップ選手が流れて、42.195キロを走るトレーニングではなく、箱根の高低差がある1区間15キロ前後の距離を速く走るトレーニングに特化しているのが原因という声がある。

では、だからと言って箱根駅伝の仕組みを今更変更できるのか?という問題もある。箱根駅伝の1日で何十億円のお金が動く上に、山の神など幾多のドラマを生み出してきた歴史もある。そこに日本陸連のジレンマがある。

昨年、筆者のブログで高校野球で選手の健康管理のために、試合時間を短縮するタイブレーク(あらかじめ塁にランナーを置いた状態で試合を始める)の問題を述べたが、男子の陸上長距離界も箱根駅伝の伝統か、五輪のマラソンでのメダル獲得かという二者択一が出てきている。

この問題は学校の筆記試験で先生が答案用紙に赤ペンでマルやバツをつけるように、簡単に「正解」が出るモノではない。陸上の長距離を愛する人たちが一人ひとり考える問題である。