①ではボクサーの拳に倒した相手の想いが乗り移り、それがパンチの重さになる話をしたが、②では他のスポーツも言及したい。
倒した相手の想いが勝ち残った選手の身体に残るのは、何もボクシングだけではない。他のスポーツも同様だ。
以前、能田達規のサッカー漫画で2部リーグの潰れかけたプロサッカークラブに、クラブの生き字引で2部昇格の貢献を果たしたバンディエラ(チームの顔)の選手に対して、クラブの経営難から戦力外になり、その選手を尊敬していたクラブ職員が凹むシーンがあった。
しかし、そのバンディエラの選手は戦力外通告後もクラブの経営難に対して、契約期間内までクラブの存続活動に協力する姿があった。
「自分を解雇したクラブになぜそこまで忠誠を尽くすの?」という困惑したクラブ職員の問いに、彼は「色々あったけど、このクラブは自分を育ててくれたチームだから、最終節のサポーターの挨拶までチームの一員としてこのクラブに貢献したい」と、漢気(おとこぎ)のある言葉を言った。
潰れかけの弱小サッカークラブにもクラブの看板選手や地元のサポ、利益度外視のスポンサーなど、そのクラブにはチームに関わっている色々な人の想いが詰まっている。だから経営難だから簡単に合理化してクラブを消滅させてはいけないのだ、とあった。
①のボクシングは個人競技で、②のサッカーは集団競技とスポーツの在り方は違うが、色々な人の気持ちや想いが詰まって戦っているという意味では同じである。
今回は自分のソウルフードならぬソウルスポーツ(魂の根幹を成すスポーツ)で紹介したが、このブログを読んでくれている読者もそれぞれの想いのあるソウルスポーツがあるだろう。
そうした一般の市井(しせい)の人々の心に宿る競技への崇高な想いが、この日本という国のスポーツ文化へと昇華していくのである。