今回のブログのタイトルは余りに短くて抽象的過ぎる言葉かもしれないが、スポーツというモノに携わる人間にとってこの「想い」というモノは(「現金化」とは対照的かもしれないが)切っても切れない重要な要素である。

この想いというモノを実感させられたのは、比較的最近の「はじめの一歩」である。

一歩が対戦を熱望していた練習生時代からの宿命のライバルである宮田一郎との東洋タイトルが、ビジネス上の問題で破談となり、珍しく自暴自棄になった一歩はボクシングを辞めようとした。

そうしたいじけた一歩にボクシング記者の飯村真理に言われた言葉があった。

「私(飯村)は色々な国のボクサーを見てきた。レベルやお国柄の違いはあれど1つ共通点があった」

「強いボクサーの拳は重たいのよ。そういうボクサーの拳には倒したボクサーの名誉・金・応援する人の想いが乗り移るモノなの」

「(一歩の当時の戦績)20戦19KO勝ち。君(一歩)の両拳には19人分のボクサーの想いがこびりついている(実際は千堂武士と2度対戦しているので18人分)。これだけの男たちを倒した君の拳はもう簡単には引き返せないのよ」

この拳に対する想いというのは何も漫画の中の話だけではない。現実のボクシングでもある話だ。

筆者はプロの試合の経験はない。しかし筆者が3000円なり4000円なりチケットを買って興味のあるボクサーの試合を見る時、筆者はそのリングに上がるボクサーに想いを託す。

もちろん、そうしたボクサーというのは倒したボクサーの夢を喰って、自分の夢の寿命にする世界である。実際のボクサーのパンチ力は無くとも「重たい」のである。

この図式というのは、高校野球のトーナメントで勝ち抜いた高校が倒した高校の千羽鶴を受け取るのに似ている。

倒した選手が想いを受け継ぐのは他のスポーツでも同様である。〈②に続く〉