今相撲を見ながら考えているが(2015/09/21執筆)ここ何場所か伊勢ケ濱部屋の照ノ富士が強い。もともと別の部屋の力士だったが、当時在籍していた部屋が伊勢ケ濱部屋に吸収されて、横綱や三役経験のある力士が同門になったことにより、メキメキ急成長していきあっという間に大関まで駆け上がった。
しかしその照ノ富士。相撲が粗いというか力任せである。腰が高くて、抱えて腕力だけでぶん投げる相撲もままある。
照ノ富士の相撲を見ていて思い出すのは、元大関の把瑠都である。把瑠都の場合、照ノ富士よりもっと力任せというか腕力だけの相撲に見えた。
照ノ富士の場合はまわしの巻き替えなどでまだ技のある器用な部分も見えるが、把瑠都の場合、もっと力のみの相撲で、昔の柔道部物語の西野新二ではないが「袖と襟を捕まえてぶん投げるだけ」という柔道で日本一になった話があったが、まさに把瑠都の場合あれを相撲でやっていた感がある。
以前、藤島大が「お相撲さんには『怪』の文字が似合う。ちびちびとサプリメントなんか舐めてたら困る」という話があったが、把瑠都の場合まさに相撲の取り口が『怪力』把瑠都という異名がぴったりだった。
余談だが把瑠都ではないが、栃ノ心は以前両腕サポーターを付けていたが、これは怪我ではなく本気で両腕に力を入れると腕の筋繊維が切れるので、それを保護するためである。それだけ今の外国人力士は尋常ではない怪力なのである。
筆者が実家で相撲ファンの両親と相撲を見ていた時に、筆者が「把瑠都に力相撲で対抗する日本人力士が出てこないかなぁ」といったら、父親に即答で「無茶言うなっ!馬鹿っ!」と言われてしまった。
確かにそれは辞書で「無茶振り」と引けば、今言った「把瑠都に日本人力士が力相撲で対抗すること」と出てきてもいいくらい無茶振りの典型であるが、もともとお相撲さんや格闘家というのはいわゆる一般人との範疇(はんちゅう)から外れた別の生き物である。いわば力士(格闘家)は人間と別の生き物である。しかし今の日本人格闘家に物足りないモノを感じていて、それは一種の危機感のような感じである。〈②に続く〉