①ではETUとベガルタの背番号7のバンディエラについて説明してきたが、ここでは無名選手がのちの代表監督との邂逅(かいこう)からチームにとっての背番号7のバンディエラになっていったプロセスを見ていきたい。
まずサンフレッチェ広島から見てみたい。広島ではJリーグ初期に森保一が背番号7を付けていたが、今でこそ森保はJリーグで優勝した監督となったが、JSL時代のマツダ(サンフレッチェ広島の前身)に入団した頃は無名もいいところの長崎の高卒選手の1人に過ぎなかった。
森保の母校は長崎日大高校で、当時の長崎の高校サッカーと言えば国見といういわば「絶対王朝」の存在があり、高校時代の森保は高校の国体長崎県選抜のメンバーに入るのがやっとだった。
そうした森保は自分自身もそこまで期待していた訳ではなかったが、当時のマツダにのちの日本代表監督になったハンス・オフトがチームを指揮していたことが森保の運命を変えた。
オフトは地方の高卒選手に過ぎなかった森保にそれまで前線と守備のつなぎでしかなかった「ハーフ」というポジションが、ビハインド・ザ・ボール(背中に目があるように、相手に背を向けていてもマークする選手を把握すること)という意識を持った「ボランチ」という概念を日本サッカー界に植えつけ、広島で背番号7を付けていた森保はこうした新しいやり方で、当時の日本のサッカー少年にこのポジションを地味なつなぎ役から垂涎の人気の仕事へ変貌させることに成功した。
背番号7のバンディエラがいるクラブは(J2だが)他にもある。
筆者が応援しているジェフユナイテッド市原・千葉である。
ジェフの背番号7は佐藤勇人である。広島のFWの佐藤寿人とは双子である。
勇人は双子でも真面目な寿人とは対照的に少しちゃらんぽらんでフラフラしたところがある。ユース時代にも練習に来なかった上に日サロに行ってクラブの関係者を唖然とさせたこともあったような問題児で、そうした性格が災いして寿人よりトップ昇格が遅れたし、一時期ジェフを離れたこともある。
しかしそんな当時の今時の若者だった勇人も2003年にジェフにイビチャ・オシム監督が変わって選手として急成長した。
よくオシム門下生は薫陶(くんとう)を受けると選手寿命が延びるというが、たまたまチームで7番だった勇人もオシムの走るムービング・サッカーの指導を受けるとただの身体能力の高いボランチから、豊富な運動量と攻撃の嗅覚を併せ持った機動性の高い高性能ボランチと豹変し、チームとしても背番号7のバンディエラとして2005年のナビスコ杯優勝に貢献し、のちにオシム・チルドレンとして日本代表のサムライブルーのユニフォームを着る選手になった。
ただジェフの場合代表監督の問題からクラブ全体が失速して、チームがJ2の底無し沼に7年も浸かるようになってしまって、勇人自身もキャリアが下降線になっていった。
こうして②でも無名選手がのちの代表監督との邂逅から背番号7のバンディエラというのも最初の出会いは割と目立たないところからくるモノである。
フォレスト・ガンプの「一期一会」ではないが、人との出会いがのちのクラブの顔となる選手を生み出すのだ。
参考文献 オフト革命 勝つための人材と組織をどう作るかー 軍司貞則 祥伝社 1993年