①では筆者が尊敬するオシム監督の言葉を借りてサッカーチームの構築における2つの哲学を述べてきたが、②では筆者が個人的に考えているサッカー論について話してみたい。

前回オシム監督が言った「壊すサッカー」というのは、筆者はこのブログで「絶対的ストライカーと10人の小人たち」という言葉で述べてきた。

この「絶対的ストライカーと10人の小人たち」というやり方は2000年代のJ2で多いスタイルだった。

この頃はJ2というプロサッカーリーグに新規参入したチームが多く、そうしたクラブのフロントが早くチームを成熟させる為にこのメソッドを多用していた。

しかしこのスタイルというのは、他のクラブに絶対的ストライカーへの得点源の遮断をされると脆く(もろく)、結局J1に昇格してもエレベータークラブになってしまうパターンも多い。

しかし、前回述べた「創るサッカー」というのもまたJには存在する。

この「創るサッカー」の提唱したのは前述のオシム監督だが、その手法のプロセスを実際のJで見せたのはオシム監督の一番弟子である通称ミシャことミハイロ・ペトロヴィッチ監督である。

ミシャのサッカーがJに初見参したのは2006年のサンフレッチェ広島の監督就任からである。

「リスクを冒さないサッカーはサッカーとは呼べない」とミシャはチームを圧倒的な運動量のある攻撃ありきのサッカーを構築しようとした。

…しかし…

ミシャはチームの構築という面で攻撃ではオシムの水準まで到達していたが、守備面におけるリスクマネジメントがこの時はまだ出来ずに広島はこの年に2度目のJ2降格を喫した。

だが面白いのはここからだった。本来降格の烙印が押された監督など契約解除(解雇)が普通である。しかしフロントはサポーターの猛反対を押し切り、ミシャの続投を決断。そしてミシャ率いる広島はその理想とした走る破壊的なオフェンス能力を誇るサッカーで翌2007年のJ2を優勝という形での昇格を実現した。

そして広島はその後もJ1で好成績を上げるも、フロントはミシャにおけるJでの高い評価に値する報酬を払えないことを理由に、ミシャとの契約を円満に終了した。

しかしミシャが去ったあとに彼のサッカー遺伝子を継承した広島のバンディエラの森保一監督が2012年・2013年とJ1連覇を達成した。

そしてミシャは名門浦和レッズの監督に就任。当初「ミシャはJ1では結果を残せない」という声もあったが、守備におけるリスク管理の術(すべ)も覚えたミシャは2015年のJ1ファーストステージを無敗で優勝する偉業を成し遂げて、そうした外野の声を黙らせた。

こうしてオシム監督が提唱した「創るサッカー」をチームに構築するプロセスというのは、その一番弟子の手によって試行錯誤の末に日本サッカー界のピッチ上に降臨した。

創るサッカーというモノの産みの苦しみはサンフレッチェサポーターは骨身にしみて知っている。しかしその難産の果てに誕生したサッカーの誕生の尊さも彼らはまた知っているのだ。

参考文献 サンフレッチェ情熱史   中野和也  ソル・メディア  2013年