今筆者は自分のブログでアスリートにとっての目標の立て方について色々と書いているが、読んでいる読者からするとどっちかはっきりしない矛盾した考えと思われるかもしれないが、まだ考えてる事を書きたい。
自分もスポーツにおいての目標の立て方について矛盾した思考のように感じるが、それでもこの二律背反した部分を感じざるを得ない。
このテーマで思い出すのはまたも「はじめの一歩」だが、一歩がボクシングの日本王者になった後に挑戦者に一歩の元同門で他のジムに移籍したハンマー・ナオ(ゲロ道)と対戦した。
最初一歩に憧れて同じジムに入門したナオだが、移籍後に一歩のベルトを狙うという数奇な運命を辿った。
この時ナオは対戦時にボディで肋骨を折られて悶絶しながら、こんなことを考えていた。
「ボクサーは皆世界王者に憧れる。でも自分(ナオ)は幕之内一歩に憧れた。この人と戦う事が最終目標だ。これ(日本タイトル)が自分の世界タイトルマッチだ」
練習生止まりの筆者から見れば日本タイトルも十分高い頂だが、当時の筆者はこの時ナオのことを「ずいぶんと欲の無い男だ」と感じた。
筆者がプロを目指していた20年近く前というのは筆者に限らず皆世界王者を目指していて(田舎の高校生が卒業後に上京して世界王者にスパーを申し込むのが普通にいた)、あの当時の若者は皆、誇大妄想して当たり前でそうした考えが普通だった。
しかし話を戻すが21世紀の日本でボクシングをしている練習生は、皆前に言ったようなナオみたいな欲の無いボクサーが大半になった。
ある意味目標の立て方としては、普通の練習生はスポーツ選手としてトップレベルの性能が備わっていないのがほとんどだから、彼らのやり方は1人の人間として正しいといえば正しい。
しかし今の時代ネット社会になって、情報をいかに捨てて現実的になるかを求めるようになったからだからか?解らないが、今の若者が誇大妄想しなくなったことについて、彼らは人間としては正しい選択をしていると思うが、何か物足りないというから一抹の寂しさをこうした流れに感じる。
そして(ただの馬鹿といえばそれまでだが)自分達がボクシングに対して誇大妄想できたのはある種幸せだったとも感じる。