冒頭のタイトルの2人で①では中田について述べたが、②では内藤について述べたい。
内藤大助が所属していた葛飾区立石にある宮田ジムと言うのは、筆者がボクサーをやっていた90年代終わり頃には「新人王メーカー」と言われる程、また当時の他のジムの練習生や4回戦ボクサーから絶賛されるくらい、4回戦での勝率は圧倒的に高く宮田ジムでデビューできる4回戦は他のジムからの垂涎であり恐怖であった。
そうしたジムだったので「宮田ジムでデビューした4回戦ボクサーが負けたら、それはジムではなくボクサー自身に負けた責任がある」とさえ言われていた。
そんな中で(当然のように全日本新人王→日本ランカーと言う)出世街道をひた走っていたMと言う宮田ジムのボクサーがいた。
Mはランキング入りした後に、東洋圏内のボクサーを左構えから自慢の強打で瞬殺→失神→タンカ送りをしまくりKOの山を築き、筆者も後楽園ホールでMの試合を見て「あんな風になりたい」と思ったモノだった。
そうしたMは所属先の宮田ジムのマネージャーに「Mを世界王者に出来なかったらそれはM個人の責任ではなく、(宮田)ジムの責任」とまで言わしめた逸材だった。
内藤大助と言うボクサーはこのMがメインイベンターだった時にMの前座のボクサーだった。
そうして勝ち上がったMと宮田ジムに日本タイトル挑戦の話があり、両者はもちろん快諾した。
…しかし…
Mは日本タイトルを挑戦しKO勝ちで戴冠するも、対戦相手がその試合でのダメージが原因で死去。勝ったMも精神的な苦痛を受けて試合に迷いが生じ、初防衛に失敗。
以後Mはそれ程目立った戦績を上げず、ひっそりと引退した。
しかしMが引退した後も宮田ジムは前を向いて戦い続けなければならなかった。そうした宮田ジムの自主興行で、Mの後釜候補として白羽の矢が立ったのがMの試合の前座でコツコツ下積みを続けた内藤大助だった。
内藤も全日本新人王の後日本王者→東洋王者とその後着実にステップアップしたが、世界戦ではタイ人に瞬殺され二度目の挑戦でも判定負け。
ジムとしても内藤としても背水の陣で臨んだ三度目の挑戦で悲願の世界王者を戴冠した。
そして初防衛戦で、当時日本のスポーツ界の絶対的なヒールになっていた亀田三兄弟の次男の大毅との対戦で、宮田ジムと内藤は一世一代の大芝居「国民の期待に応えます!」と言って、大毅に快勝し内藤大助と言う名前はボクシング界と言う狭い世界だけではなく、広く日本全体に知られるようになった。
こうして内藤大助のシンデレラストーリーを見てきたが、前回の中田と財前の関係ではないが内藤大助と言うボクサーも最初から有望株ではなかった。
物事、先はどうなるかわからない。だから人生は面白い。