①からの続きだが、ボクシング教原理主義者の自分(筆者)はどれだけボクシングの本質に近づいていたのか?というところだ。

全くボクシングの本質の1%にも近づいていなかったのである!ボクシングについてどうでもいい上っ面で表面的な部分しか見えいなくて、無駄な知識で無意味に自己武装して、ジコマンに浸っていただけだった!

そうした事しか見ていなかった自分がボクシングを何も理解していなかったのは、端からみれば「当たり前だ」と突っ込まれそうだが、自分としては頭を金属バットで殴られたような衝撃だった。

それまで自分はボクシングというのは、身体を鍛えて強いパンチを打てば相手はおねんねしてくれると思っていたが、パンチ力はそれは無いよりもある方が良いがパンチが無くともチャンピオンベルトを獲れる選手も沢山いるのだ!と気づいた。自分がこの競技で大成しなかったのは自然の摂理だと悟った。

翻ってサッカーである。ボクシングより遥かに選手層もファンも圧倒的に多いこの競技には、ボクシング教原理主義者ならぬ「サッカー教原理主義者(サッカーヲタ)」もこの国には多数存在している。

しかし筆者はボクシングで一回ひとつの競技に異常に執着する事の危険性を身を持って経験しているので、①にあるようにサッカーは死ぬ程好きだが、だからこそ別の競技にも興味を持とうと心がけている。

実際なぜあれだけ執着していたボクシングが全く理解していなかったのは、今はその理由が分かる。

要は自分とその競技(この場合ボクシング)との距離が近くなり過ぎて、いわゆる「木を見て森を見ず」の状態だったのだ。

今のサッカーヲタを見ていてバルサやレアルが好き過ぎるサッカー教原理主義者も多くいるが、筆者の言葉など届く筈(はず)も無いのでそっとしておくが、見ていてバランス感覚が取れていないな~、と老婆心ながら思ってしまう。

その人がバルサやマンUにハマり過ぎて、周囲がその人との付き合いに疲れてサッカーが嫌いな人がなったら本末転倒である。

その人の価値観は当人のモノだし筆者がどうこう言う事でもないが、ヲタになると知識がどんどん増えて自分が凄いと錯覚する場合もあるが、サッカーに必要な要素は知識の量ではなく、競技の本質を見抜くことや現場の人間の冷徹な判断力である。

昔の漫画で「フリーク(ヲタ)はフリーク。プロフェッショナルではない」という台詞があったが、知識の量は増え過ぎると、選択肢を増やして判断を遅らせる事もある。だから知識の量で本質を見失ってはいけない。