〈①の続き〉川崎市という街が首都圏で100万人の人口を保有するプロスポーツチームとしての潜在能力がある都市であったにも関わらず、なぜ最初は上手くいかなかったのかを見てみたい。
もともと川崎市という街はプロ野球で2度球団の撤退を経験している。
最初大洋ホエールズ(現DeNAベイスターズ)は以前川崎球場を本拠地にしていたが、その後横浜市に移転した。その後川崎球場を本拠地にしたロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)も千葉市に移転した。
この2つだけでもキツいのに川崎市のプロスポーツチーム不信を決定的にしたのがヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)の存在である。
Jリーグ開幕時にヴェルディは地域名の川崎よりも親会社の読売の名前を付けようとして、川崎市民の反感を買った。
また「ヴェルディは全国区」というクラブの方針で人気クラブや重要な試合の対戦では、川崎市の等々力競技場より東京都の国立競技場を使用し川崎市民のプロスポーツチームへの不信感を決定的にした。
その挙句ヴェルディは東京に移転したので、川崎市としては行政も市民も地元企業も「スポーツチームはもううんざり!」という雰囲気になった。
そんな中で川崎フロンターレが川崎市にプロサッカークラブを作ろうとしたので、当然最初は市民から全く相手にされなかった。
…しかし…
フロンターレにはそれまでのチームのような腰掛けのような感覚はなく、川崎という街に骨を埋める覚悟でやって来たのだ。
元フロンターレの岡山一成(現奈良クラブ)がスタジアム近くの商店街でサイン会をした時小学生3人しか来なかったと言っていたが、そんな超のつく逆風の中でもフロンターレは地域住民や地元企業・行政と地道な根気強いアプローチをコツコツ続け、次第に川崎市からも「フロンターレは今までのチームとは違う!」と心を開いて貰えるようになり、集客やチームの強化も少しずつ出来るようになっていった。
そしてその後苦難の末にJ1昇格。そこから先のフロンターレの活躍は知られているのでここでは省略する。
川崎市とフロンターレとの繋がりの深さは試合時だけではない。2011年の東日本大震災の時もフロンターレのサポーター集団「川崎華族」が市内にある大相撲春日山部屋やボクシング川崎新田ジムなど、他のスポーツチームと結束し街頭での募金活動でクラブ別で見るとトップレベルの寄付金額を集めた。
もちろん寄付金額の多い少ないだけでそのクラブの価値を決めるのは愚かなのは理解しているが、フロンターレが川崎市にとって4度目の出会いで相思相愛の関係になれたことを証明した瞬間でもあった。
それまでプロスポーツチームから不遇の扱いを受けてきた川崎市。しかしそんな川崎市にも4度目の出会いで春が来たのである。
参考文献 僕がバナナを売って算数ドリルをつくるワケ 天野春果 小学館 2011年
岡山劇場 声は届き、やがて力となる。 岡山一成 モシターヂ 2014年