<①の続き>そうした雑誌というビジネスモデルが崩壊していることを今考えている訳だが、雑誌編集という仕事が以前よりメリットがなくなっている。

スポーツではないがバンド漫画の名作「BECK」で主人公コユキ(田中幸雄)達のバンドBECKが力がありながら、当時の音楽業界の政治的圧力により干されていた時期があった。しかしBECK自体に音楽的才能があったので色々な人が助け船を出していた。

その中に某音楽雑誌をモデルにした雑誌編集部がいた。彼らはBECKを取り上げてBECKのライブが雑誌の効果で大盛況だったり、欧米の一流アーティストとPVを作るのにその音楽雑誌の編集部員が英語で制作の手助けをしたり、音楽ド素人の筆者が見ても音楽雑誌の編集というのは昔はメリットがあった。

いわばアーティスト(神)ではないが編集部員はそれに近づける(神に近い存在)特権階級であり、ネットが生まれるまでは音楽について持論を語ることが出来る人は限られていた。

しかしネットによって雑誌の影響力は激減して今BECKのようなバンドを音楽雑誌で紹介しても、効果は10分の1位しかないだろう。

今音楽のことを例に出したがスポーツでも同じである。上のアーティストの部分がスポーツ選手に変わるだけである。

ネットの情報というのは偏りはあるがでは専門誌なら絶対的な信頼が出来るか?というとそれも心許ない。

ジェフの試合をチェックするのも、ゲキサカで途中経過を確認して携帯電話で結果を知り、試合の戦評のジェフのブログで確認する。ボクシングも拳論で見に行けない試合も逐一チェック出来るし試合情報もボクシング協会の携帯サイトでわかる。どちらも専門誌が入る余地はない。

今スポーツ専門誌にある特権はアスリートに近づけることぐらいである(これはこれで価値はあるが)。今筆者もスポーツのブログが書けているので雑誌編集部に入るメリットがないのである。

ネットというテクノロジーの進化で既存の特権階級が形骸化した。テクノロジーの進化で特権階級が弱体化するのは歴史上よくあることである(それを専門用語で「革命」という)。今回は雑誌が持っていたかつての特権について書いてみた。