筆者(独眼鉄)のブログのメインストリームのテーマである「スポーツの現金化」というテーマ。スポーツというジャンルは非常に不思議なジャンルで、球技であれ格闘技であれレースであれ「勝つ」というシンプルかつ純粋な目標の為に、日夜様々なジャンルの勝負師たちはその目標の遂行を達成させるべく奔走している。

しかし筆者もこういうブログを書くようになって1年半が経過し、それまでは興味がなかった競技やチェックをしていなかった試合(アギーレ体制の日本代表など)を見るようになって、スポーツという娯楽が単なる娯楽に留まらず真の文化に脱皮しつつある一歩手前に今の時代来ているように見える。

と言うのも以前にも筆者のブログで言ったことかもしれないが、銀座の画廊の経営者の言葉だが「画廊でみんなで絵を観賞する。その後その人達が喫茶店とかでその絵に関して語る。その語りが絵の文化の本質である」と言っていたが、絵に限らずスポーツでも同様である。

サッカーでも週末のスタジアムで試合を観戦する→試合後にスタジアム近くのレストランや居酒屋で試合を見た人達が、その試合や贔屓(ひいき)のチームの選手や監督の采配論について語る。それこそがスポーツ文化の真骨頂である。よく「男の一番の夢はプロ野球チームの監督」というが、野球監督でもサッカークラブ社長でも種目が違うだけで、考えていることは同様である。

ここで大切なのはファンやサポーターのような人達が「どのように」勝つかということである。この「どのように」という部分が欠落していると、タコが入っていないタコ焼きみたいなモノでタコ(哲学)があってタコ焼き(勝利)が楽しめるのであり、哲学がないスポーツというのは場合によって単なるルーチンワークに成り下がってしまうのである。

以前相撲中継で解説の舞の海秀平さんが「(故郷の)青森のわんぱく相撲でその子供力士の相撲を見ると、あの突き押し相撲はあそこの道場でこの四つ相撲はどこそこの道場だとすぐわかる」と言っていたが、ここで面白いと思うのはそこの相撲道場の指導者の哲学が子供力士に、自身(指導者)のDNAのエッセンスを注入させ受け継いでいるところである。

ここでミソになるのが指導者の哲学が、長い間蓄積され熟成されていくと「文化」として昇華される点である。逆に言えば哲学のない勝利は文化ではなく、単なる単純労働と同じである。相撲ならはたきこみや引き落としみたいな楽して勝とうという相撲では目先の白星は拾えても、大器として出世はできないのである。

今回は相撲を例えに出したが他の競技でも同じである。サッカーでも昇格できれば何でも良い、ただ勝てば良いという(ここ数年の監督だけ替えたジェフではないが)哲学のない短絡的な勝利至上主義というのは面白くも何ともないのである。強いてジェフで言うなら「10人のフィールドプレーヤーが全員攻撃&全員守備で1試合に12~13kmぐらい走って、相手選手に『ジェフの選手は相手するとしつこくて面倒臭い』と思われるような(テクニックよりも)走力サッカー」が筆者(独眼鉄)の「語り」の部分である。

こういう語りの部分がスポーツ文化を形成するのに最も大切で、筆者の考えが唯一無二の正解では全くなく、むしろ100人のサッカーファンがいれば100人の正解が100通りあり、それぞれが哲学となり文化として昇華されていくのである。

今日は相撲とサッカーの例えだが、今日(2015年1月2日)は箱根駅伝の往路があったが陸上でも同様で、他にも野球でもバスケでもボクシングでも全く変わらないのである。

このブログの読者の方々もスポーツを見ている人は多いでしょうが、皆さんも自分の哲学を文化に昇華させる為に頑張ってもらいたい。それが筆者の望みでもある。

※スポーツ媒体でいずれスポーツビジネスの記事を書くのを目標としてます。関係者の方はメッセージ下さい。