季節も冬に入り筆者(独眼鉄)もジョギングをするが、ランニングメディアの中ではランナーにとって聖地ではないがある種神聖なイベントでもある東京マラソンの2015年大会のニュースもちらほら聞こえてきている。
筆者は一回につき7km走るが(今朝も走ってきた)、フルマラソンはビビってやる勇気はないが走るのはボクサー時代から割と好きな練習の一つであった。
こうして寒い冬がきたが冬はランナーにとってシーズンインの季節であり、「旬」の時期でもある(正月には箱根駅伝もある)。
そうしたマラソンの時期にあって昨今のランナーに異変が出てきている。と言ってもジョガーにとっては今更だが、最近のマラソンは「実業団間の勝負」というより「実業団ランナーvs無所属ランナー」という勢力地図が変化しつつあるように見える。
マラソンの世界では現人神(あらびとがみ)に近い「公務員ランナー」川内優輝やロンドン五輪男子マラソン代表の藤原新のような存在が最近目立つが、広く知られているように彼らはどこかの実業団チームに所属している選手ではなく、いわば「無所属ランナー」である。
こうした動きそのものが最近の日本のスポーツ界での大きな変化のように見える。マラソンという個人競技は適性の要素もあるが、野球やサッカーのように集団競技の上に選手個人の身体能力の問題に加えて、選手間の連携プレーでの協調性がその競技の勝敗を決めるのとは違い、マラソンの場合は極端な話、選手1人で練習メニューを決めるのも可能である。
実際川内優輝の場合、実業団ランナーがマラソンで戦う場合は1ヶ月1000kmを目標とするが、川内は公務員という本業の為に平日の練習は午前1回のみで、その代わりフルマラソンの大会に沢山出場し量をこなすことによって実業団ランナーに対抗できる走りの質を高めているのである(川内の月間走行距離は600km)。
藤原新にしても五輪の代表選考レースの前に指導者と対立し、失業保険で食い繋いでレースに出て五輪代表に出場したのは有名な話である。
ここで思うのは川内や藤原のようなランナーが出てきたのは時代の変化からきたモノであるということである。彼らの場合マラソンという個人で完結するという競技の特性もあったが、日本特有の儒教からくる「指導者(教師)の言葉は神の声」というような絶対的権威主義の姿勢に対して疑問を感じ、「勝ったら指導者の手柄。負けたら選手の責任」という図式より「自分の考えたメニューで負けるなら結果は自分の責任だから仕方ない。その結果を受け入れる」というような古びた前時代的な権威主義から、自分の頭で自分の競技者としての特性を生かしながらメニューを考え結果は(勝ちか負けかはともかく) 全て自分が引き受けるという、本当の意味での自立ができた個人主義の時代に社会の在り方が変化しつつあるということである。
実業団のマラソンの指導者が全て駄目だとは思わないが、日本のスポーツ界の場合少し前の女子柔道での体罰&パワハラ問題のように間違った権威主義が多すぎたように思える。指導者が選手に迎合して日和見になるのも問題だが、指導者(教師)という小さな権威にかかって威張るのもどうかと思う。本当に権威がある人はその権威を決して自分から振りかざさないというが、マラソンに限らず日本のスポーツ界のいびつな権威主義も考え直す時期にきている。
筆者は一回につき7km走るが(今朝も走ってきた)、フルマラソンはビビってやる勇気はないが走るのはボクサー時代から割と好きな練習の一つであった。
こうして寒い冬がきたが冬はランナーにとってシーズンインの季節であり、「旬」の時期でもある(正月には箱根駅伝もある)。
そうしたマラソンの時期にあって昨今のランナーに異変が出てきている。と言ってもジョガーにとっては今更だが、最近のマラソンは「実業団間の勝負」というより「実業団ランナーvs無所属ランナー」という勢力地図が変化しつつあるように見える。
マラソンの世界では現人神(あらびとがみ)に近い「公務員ランナー」川内優輝やロンドン五輪男子マラソン代表の藤原新のような存在が最近目立つが、広く知られているように彼らはどこかの実業団チームに所属している選手ではなく、いわば「無所属ランナー」である。
こうした動きそのものが最近の日本のスポーツ界での大きな変化のように見える。マラソンという個人競技は適性の要素もあるが、野球やサッカーのように集団競技の上に選手個人の身体能力の問題に加えて、選手間の連携プレーでの協調性がその競技の勝敗を決めるのとは違い、マラソンの場合は極端な話、選手1人で練習メニューを決めるのも可能である。
実際川内優輝の場合、実業団ランナーがマラソンで戦う場合は1ヶ月1000kmを目標とするが、川内は公務員という本業の為に平日の練習は午前1回のみで、その代わりフルマラソンの大会に沢山出場し量をこなすことによって実業団ランナーに対抗できる走りの質を高めているのである(川内の月間走行距離は600km)。
藤原新にしても五輪の代表選考レースの前に指導者と対立し、失業保険で食い繋いでレースに出て五輪代表に出場したのは有名な話である。
ここで思うのは川内や藤原のようなランナーが出てきたのは時代の変化からきたモノであるということである。彼らの場合マラソンという個人で完結するという競技の特性もあったが、日本特有の儒教からくる「指導者(教師)の言葉は神の声」というような絶対的権威主義の姿勢に対して疑問を感じ、「勝ったら指導者の手柄。負けたら選手の責任」という図式より「自分の考えたメニューで負けるなら結果は自分の責任だから仕方ない。その結果を受け入れる」というような古びた前時代的な権威主義から、自分の頭で自分の競技者としての特性を生かしながらメニューを考え結果は(勝ちか負けかはともかく) 全て自分が引き受けるという、本当の意味での自立ができた個人主義の時代に社会の在り方が変化しつつあるということである。
実業団のマラソンの指導者が全て駄目だとは思わないが、日本のスポーツ界の場合少し前の女子柔道での体罰&パワハラ問題のように間違った権威主義が多すぎたように思える。指導者が選手に迎合して日和見になるのも問題だが、指導者(教師)という小さな権威にかかって威張るのもどうかと思う。本当に権威がある人はその権威を決して自分から振りかざさないというが、マラソンに限らず日本のスポーツ界のいびつな権威主義も考え直す時期にきている。