少し前の話になるが今年の中頃にスコットランドがイギリスから分離独立する為の国民投票があった。ヨーロッパという地域は先日のブログでも言ったが、EUで域内統合を果たしたと言われているが実はイギリスもそうだが、同じヨーロッパのスペインも(スペインも経済的疲弊が激しいが)最も国内経済が順調な北東部のカタルーニャ自治州(バルセロナがあるところ)がスペイン本国からの分離独立を求める動きというのが定期的にあって、イギリスにしろスペインにしろEUという枠組みどころか、国内の行政単位すら一枚岩にまとめられないくらいバラバラな地域なのである。
そのスコットランドという地域、なぜスコットランドという国(?)はイングランドと仲が悪く、またなぜ仲が悪いのに同じ国になったのか?それにもまた歴史的要素がある。
元々スコットランドとイングランドは別の国であった。しかし古今東西王様というのは権力欲や領土欲が異常に強く、その欲望を満たす為には非人道的行為も厭わない。それが(ヨーロッパに限らず)人類の歴史である。
1689年イングランド王朝は前の王様であるジェイムスをフランスに亡命させ、新たにオランダからオレンジ公ウィリアムを新しい国王として呼んだ。これを歴史の授業で「名誉革命」と呼ぶ(懐かしい!!)。
さてこのウィリアムという王様は「武断派」というから信長ではないが、歯向かう者には血で粛清する性格の人間でもあった。
このイングランド王がブリテン島をまとめようとする時に、北部(つまりスコットランド)の部族を懐柔させようと部族長に恭順を促した。しかしこの答えを出させる締切が厳冬期の上に、今みたい交通機関が発達していなかった為にスコットランドの部族長達は答えを出しに行けなかった。この遅延を口実にイングランドはスコットランドの部族に粛清の口実ができた。1691年「グレンコーの虐殺」といい、イングランド政府がスコットランドのグレンコーという村に入り、村人の歓待を虐殺で返すという非人道的行為を起こした事件であり(しかし実際に殺されたの村人の1割である部族長含めた36人で大半の村人は逃げた)、この事件によりスコットランドの反イングランドへの怨念のような感情を決定的にした。
他にもスコットランドがイングランドに反発する理由はあった。大航海時代の海外貿易でスコットランドは、新大陸を航海するのにイングランド海軍の保護を受けられず関税もかけられスコットランドはイングランドから経済面でも不当な扱いを受けて不満を募らせた。
またスコットランドが新大陸へ国を挙げての大事業として、パナマ海峡への開拓事業に乗り出してスコットランド議会や王も当時の国家予算にかなりの額を出したのだが、イングランドの東インド会社が自分たちの利権を脅かすとして、このスコットランドの事業に妨害工作をして当初この事業に協力姿勢だったウィリアムも東インド会社側に回ってしまった。
既にこのパナマ事業にかなりの額を捻出したスコットランドだったが、このイングランドの東インド会社の妨害によりこの事業はあえなく失敗し、スコットランドの国庫は借金まみれになった。
こうして人命と財産という人間社会で重要な資産をイングランドにむしりとられたスコットランドは「悲しい結婚式(How Can I be sad upon my wedding day)」と呼ばれるイングランドとの合邦(吸収合併)が1707年1月16日が行われ、スコットランドは英国議会でも人口比から見ても過少な比率でしか議員を送れないようになり、反イングランドという感情を内包しながら大英帝国の一員として今に至るのである。
今回のスコットランド独立投票でも北海油田を財源にして独立後の国家予算を計上しようと思ったが、独立への強い願望がありつつも独立後のEUや世界への存在感や発言力の問題もあり、独立には至らなかった。
前回のボスマン判決でのヨーロッパ域内のグローバル化の話もそうだが、EUでヨーロッパは一つになったというが、実はヨーロッパも足並みは揃っていないのである。
参考文献 スコットランド 歴史を歩く 高橋哲雄 2004年 岩波新書
そのスコットランドという地域、なぜスコットランドという国(?)はイングランドと仲が悪く、またなぜ仲が悪いのに同じ国になったのか?それにもまた歴史的要素がある。
元々スコットランドとイングランドは別の国であった。しかし古今東西王様というのは権力欲や領土欲が異常に強く、その欲望を満たす為には非人道的行為も厭わない。それが(ヨーロッパに限らず)人類の歴史である。
1689年イングランド王朝は前の王様であるジェイムスをフランスに亡命させ、新たにオランダからオレンジ公ウィリアムを新しい国王として呼んだ。これを歴史の授業で「名誉革命」と呼ぶ(懐かしい!!)。
さてこのウィリアムという王様は「武断派」というから信長ではないが、歯向かう者には血で粛清する性格の人間でもあった。
このイングランド王がブリテン島をまとめようとする時に、北部(つまりスコットランド)の部族を懐柔させようと部族長に恭順を促した。しかしこの答えを出させる締切が厳冬期の上に、今みたい交通機関が発達していなかった為にスコットランドの部族長達は答えを出しに行けなかった。この遅延を口実にイングランドはスコットランドの部族に粛清の口実ができた。1691年「グレンコーの虐殺」といい、イングランド政府がスコットランドのグレンコーという村に入り、村人の歓待を虐殺で返すという非人道的行為を起こした事件であり(しかし実際に殺されたの村人の1割である部族長含めた36人で大半の村人は逃げた)、この事件によりスコットランドの反イングランドへの怨念のような感情を決定的にした。
他にもスコットランドがイングランドに反発する理由はあった。大航海時代の海外貿易でスコットランドは、新大陸を航海するのにイングランド海軍の保護を受けられず関税もかけられスコットランドはイングランドから経済面でも不当な扱いを受けて不満を募らせた。
またスコットランドが新大陸へ国を挙げての大事業として、パナマ海峡への開拓事業に乗り出してスコットランド議会や王も当時の国家予算にかなりの額を出したのだが、イングランドの東インド会社が自分たちの利権を脅かすとして、このスコットランドの事業に妨害工作をして当初この事業に協力姿勢だったウィリアムも東インド会社側に回ってしまった。
既にこのパナマ事業にかなりの額を捻出したスコットランドだったが、このイングランドの東インド会社の妨害によりこの事業はあえなく失敗し、スコットランドの国庫は借金まみれになった。
こうして人命と財産という人間社会で重要な資産をイングランドにむしりとられたスコットランドは「悲しい結婚式(How Can I be sad upon my wedding day)」と呼ばれるイングランドとの合邦(吸収合併)が1707年1月16日が行われ、スコットランドは英国議会でも人口比から見ても過少な比率でしか議員を送れないようになり、反イングランドという感情を内包しながら大英帝国の一員として今に至るのである。
今回のスコットランド独立投票でも北海油田を財源にして独立後の国家予算を計上しようと思ったが、独立への強い願望がありつつも独立後のEUや世界への存在感や発言力の問題もあり、独立には至らなかった。
前回のボスマン判決でのヨーロッパ域内のグローバル化の話もそうだが、EUでヨーロッパは一つになったというが、実はヨーロッパも足並みは揃っていないのである。
参考文献 スコットランド 歴史を歩く 高橋哲雄 2004年 岩波新書