唐突だが今の日本は登山ブームである。幅広い世代や性別から登山が注目され、登山を好む若い女子は「山ガール」と称され、若い世代のトレンドとなり、この雑誌不況の昨今でも登山にターゲットした雑誌は不定期発行から季刊→月刊誌になるくらい今登山は注目されている。
しかしその登山の世界のまさに「最高峰」と呼ばれるヒマラヤ登山の世界。これらの7000m以上の山々を登るというのは生半可な体力や経済力ではやっていけない。
まず高い山の薄い空気に慣れる為に数ヶ月のベースキャンプを張らなければならないし、登山に必要なシェルパも雇わないといけない。どちらも高額の予算が必要で(おそらく何百万単位のスポンサーを確保しなければならないだろう)、その為に登山家はスポーツメーカーや特にスキー用品のメーカーに片っ端からスポンサーのお願いの電話をかけるというし、何十人の登山家が何ヶ月もヒマラヤにいるのだから、登山隊を維持する維持費も尋常ではない費用がかかるのである。
しかしその登山の世界で最高峰の山にチャレンジするとき、一体なにをもって「失敗」なのか?その定義が意外と日本人はできていない気がする。
登山において登頂できたことはまごう事なき成功である。それを否定する気は全くない。
しかしエベレストクラスの最高峰の山々の登頂成功率は2割ほどだと言う。半分以上は登山を回避する世界である。無理して簡単に登れる世界ではないのである。
日本人はなんでも無理な状態でも頑張ってやればそれが美談になる風潮があるがそれが良くないのである。エベレスト登頂ではないが探検家の植村直己さんが登山で撤退して、冬の南極でも撤退して、撤退が二つ続いたらスポンサーが下りてしまい、そこで植村さんは冬のマッキンリーで無理して突っ込んで遭難して命を落としたのである。
こうした経緯が日本の探検家の中であった訳だが、探検や登山に置ける「失敗」とは何なのかという定義をしっかり認識しておかなければならないように感じる。
探検における成功はいいのだが、問題は「失敗」である。仮に登頂に達成できなくても無事に帰って来れればそれは失敗ではなく「水入り(リトライ)」なのであって失敗ではないのである。
そうでなくても最近は日本も清掃登山も増えてきたが、以前はエベレストのゴミは日本隊や韓国隊のゴミが多くて、国際的に不評だった時期もある。日本の登山も結果至上主義から脱皮して、リトライできる環境が必要である。
お知らせ 今日携帯が壊れました。今代替機で書いてます。これから携帯の調子によってブログの更新頻度が変わります。ご了承下さい。
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登山において登頂できたことはまごう事なき成功である。それを否定する気は全くない。
しかしエベレストクラスの最高峰の山々の登頂成功率は2割ほどだと言う。半分以上は登山を回避する世界である。無理して簡単に登れる世界ではないのである。
日本人はなんでも無理な状態でも頑張ってやればそれが美談になる風潮があるがそれが良くないのである。エベレスト登頂ではないが探検家の植村直己さんが登山で撤退して、冬の南極でも撤退して、撤退が二つ続いたらスポンサーが下りてしまい、そこで植村さんは冬のマッキンリーで無理して突っ込んで遭難して命を落としたのである。
こうした経緯が日本の探検家の中であった訳だが、探検や登山に置ける「失敗」とは何なのかという定義をしっかり認識しておかなければならないように感じる。
探検における成功はいいのだが、問題は「失敗」である。仮に登頂に達成できなくても無事に帰って来れればそれは失敗ではなく「水入り(リトライ)」なのであって失敗ではないのである。
そうでなくても最近は日本も清掃登山も増えてきたが、以前はエベレストのゴミは日本隊や韓国隊のゴミが多くて、国際的に不評だった時期もある。日本の登山も結果至上主義から脱皮して、リトライできる環境が必要である。
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