今回漫画論を考える上で画力をどう捉えるかということについてつらつらと書き連ねていった訳だが、前回下手糞(でも売れている)の代表例として「進撃の巨人」の諫山創について自分の見方を話した。

しかし下手糞でも売れている漫画家は他にもいる。個人的にその代表例として挙げたいのが「弱虫ペダル」の渡辺航と「Butter」のヤマシタトモコである。

実名を出して下手糞扱いして申し訳ないが、この2人の画力は稚拙である。しかしその一方で両者のイラストや話のストーリー性の中身には何かが詰まっているような、具の中身はわからないが美味しい具材が具沢山に入っているようなイメージがある。

渡辺航の代表作の弱虫ペダルはかなり極端な名前のセンスやキャラ設定があるようで、その一方では昨今の少年漫画雑誌では絶滅危惧種のような沸騰した熱湯を感じさせる熱さがある(20世紀の秋田書店は皆このぐらい男臭い熱さのある漫画が普通だったが)。

渡辺航の漫画を見てると画力として必要なスペックは必要最小限に抑えて、自分(渡辺航)が弱虫ペダルの小野田坂道と彼のする自転車ロードレースという過酷な競技を、レース中の過酷なコースの環境や自分たちを倒そうとするライバル校のロードレーサーたちと闘うという、彼らの苦闘ぶりを読者に人生という厳しいレースに立ち向かえといった激しく強いメッセージ性を紙に載せていったことで、それが結果として弱虫ペダルが秋田書店で一番のドル箱の作品に成長していったのである。

一方ヤマシタトモコの「Butter」も思春期の高校生の男女が紡ぎ(つむぎ)出す「面倒臭さ」をどうコントロールして、ダンス部でダンスを通じて肉体的な成長だけでなく精神も大人にしていくべきなのかというメッセージ性を筆者(独眼鉄)は感じた(筆者の勝手な思い込みかも知れないが)。

特にButterの端場君の思春期の高校生男子の面倒臭さは、筆者もかなり長い間経験していたので身につまされる思いであった。

結局漫画というのは画力が必要ないわけではないのだが、仏像彫刻の世界でいう「仏を彫って魂入れず」ではその彫刻が人々に敬愛される仏像になるか、はたまた単なる玩具に成り下がるかというのが彫刻家の能力や精神性に委ねられるように、漫画というのもその漫画家が伝えたいメッセージ性がメインであって、画力は一種の補助輪のようなものであって補助輪がメインになったら本末転倒であり、漫画家が漫画を描くのに必要なのは過酷な現実に立ち向かう為の強いメッセージ性なのである。メッセージ性という魂を紙に宿れば下手糞な絵でも伝わる絵になるのである。