いきなりでなんであるが「スポーツの現金化」シリーズも区切りの回数に到達した上に、ある程度筆者(独眼鉄)が表現したいこともひとまずできたので、今回は「独眼鉄のまんが道」を久々にやってみようと思う。
と言う訳で今回は漫画のことを書くが、漫画という表現手段は絵を描くことによってその中身にストーリー性を持たせて、読んでいる読者に自分の頭脳にイメージしている意図を伝える娯楽である。
しかし漫画の表現は絵なのなら漫画というジャンルは絵がうまければ成功するのかといえば、答えは「否」である。一般の絵画でも同様であるが、絵を見せる為だけの小手先のテクニックというのはある一定の時間は満足させられるのかもしれないが、いずれ飽きてしまうものである。
筆者にとって聖書のような存在の漫画である「はじめの一歩」でボクシングのフェイントに関して「フェイントというのもただ誤魔化そうする動きは一瞬でバレるが、フェイントの動きでも相手を倒そうと殺気(魂)を込めれば相手もフェイントを怯んで(動きに)引っ掛かる」と言い、続いて絵画の贋作についても「贋作(フェイク)というのも小手先のモノは一瞬で見抜かれる。しかし贋作でも専門家を何百年も騙し続けられた絵もある。それが何故可能だったのかと言えば、贋作の絵を描いた画家にもその贋作に画家としての執念のような魂を込めたからだ。画家としての精魂を込めた絵はそれだけ長い間多くの人を騙すことが可能なのだ」とあった。
作者(森川ジョージ)自身も漫「画家」だけあって絵の本質を見抜いた言葉であるが、実際の今の漫画も(昔からそうなのかもしれないが)、絵が上手いたけの奴というのは自然と淘汰されるものであって(絵と歌は上手いというのは、けなし言葉であるが)、絵の技術がある漫画でも読む気がしない漫画が増えたのも事実である。
今の日本はクールジャパンの影響から漫画ブームになっているが絵のテクニックだけに溺れて漫画の本質を見抜かないと、漫画そのものを金だけ使って楽しめなくなるリスクもある。
話を画力に戻すがある一定のプロとしての技術は必要だが、技術に走り過ぎるのもナンである。昨今ブームになっている「進撃の巨人」も画力としては最初大丈夫か?と能力を懸念するぐらい稚拙な絵だったが、作者(諫山創)の猛烈な漫画に対する怨霊のような執念が魂となって紙に乗り移り、それが多くの読者に愛され支持される漫画に化けたのだろう。
今では有数の画力がある三浦建太郎の「ベルセルク」も1巻の頃は絵の技術は稚拙であった。進撃の巨人も創作を続けていって画力が変化する可能性は大いにある。
今回のまんが道は観念論や精神論に近い話になったが、漫画を読んでいて(このブログをどれだけの漫画家の卵が読んでいるかは知らないが)、小手先のテクニックで小さく纏(まと)まらないことをおっさんの身として望むことである(スポーツの世界も同様だが)。
と言う訳で今回は漫画のことを書くが、漫画という表現手段は絵を描くことによってその中身にストーリー性を持たせて、読んでいる読者に自分の頭脳にイメージしている意図を伝える娯楽である。
しかし漫画の表現は絵なのなら漫画というジャンルは絵がうまければ成功するのかといえば、答えは「否」である。一般の絵画でも同様であるが、絵を見せる為だけの小手先のテクニックというのはある一定の時間は満足させられるのかもしれないが、いずれ飽きてしまうものである。
筆者にとって聖書のような存在の漫画である「はじめの一歩」でボクシングのフェイントに関して「フェイントというのもただ誤魔化そうする動きは一瞬でバレるが、フェイントの動きでも相手を倒そうと殺気(魂)を込めれば相手もフェイントを怯んで(動きに)引っ掛かる」と言い、続いて絵画の贋作についても「贋作(フェイク)というのも小手先のモノは一瞬で見抜かれる。しかし贋作でも専門家を何百年も騙し続けられた絵もある。それが何故可能だったのかと言えば、贋作の絵を描いた画家にもその贋作に画家としての執念のような魂を込めたからだ。画家としての精魂を込めた絵はそれだけ長い間多くの人を騙すことが可能なのだ」とあった。
作者(森川ジョージ)自身も漫「画家」だけあって絵の本質を見抜いた言葉であるが、実際の今の漫画も(昔からそうなのかもしれないが)、絵が上手いたけの奴というのは自然と淘汰されるものであって(絵と歌は上手いというのは、けなし言葉であるが)、絵の技術がある漫画でも読む気がしない漫画が増えたのも事実である。
今の日本はクールジャパンの影響から漫画ブームになっているが絵のテクニックだけに溺れて漫画の本質を見抜かないと、漫画そのものを金だけ使って楽しめなくなるリスクもある。
話を画力に戻すがある一定のプロとしての技術は必要だが、技術に走り過ぎるのもナンである。昨今ブームになっている「進撃の巨人」も画力としては最初大丈夫か?と能力を懸念するぐらい稚拙な絵だったが、作者(諫山創)の猛烈な漫画に対する怨霊のような執念が魂となって紙に乗り移り、それが多くの読者に愛され支持される漫画に化けたのだろう。
今では有数の画力がある三浦建太郎の「ベルセルク」も1巻の頃は絵の技術は稚拙であった。進撃の巨人も創作を続けていって画力が変化する可能性は大いにある。
今回のまんが道は観念論や精神論に近い話になったが、漫画を読んでいて(このブログをどれだけの漫画家の卵が読んでいるかは知らないが)、小手先のテクニックで小さく纏(まと)まらないことをおっさんの身として望むことである(スポーツの世界も同様だが)。