ついこの間ミレニアムだ21世紀だと騒いでいたのが(今の若い子にはわからないかもしれないが)、そんな21世紀もはや14年が過ぎ去ろうとしている。筆者(独眼鉄)のブログをずっと(とは言っても1年3ヶ月ぐらいだが)読んで下さっている読者の方々ならお分かりだろうが、1990年代と2000年代という20年間(世間では失われた20年と言われているが)という間に日本のスポーツ界はメジャーな競技もマイナーな競技も急速にプロ化やトップアマ化(どちらもスポーツの現金化)が進行していった。

しかし単純に一口にプロ化といっても、それまで企業スポーツによる実業団競技からお客様をグラウンドに集めて試合を見せてその入場料収入で生活するという、スポーツの試合がサーカスやミュージカルのようないわば生放送のような「興行」になるには制度だけでなく様々なジャンルの長い時間をかけての変化があってのことで競技のプロ化が可能であった。

今更繰り返すことでもないがこの四半世紀で最もプロ化した競技はやはりサッカーである。しかし今でこそサッカーもプロ化してJリーグや先日のW杯も普通に日常の話題になっているが、昔はフットボール系のスポーツで一番人気があったのはサッカーではなくラグビーだったという話を聞いたことがある。

そもそもサッカーが日本国内でプロ化の機運が高まったのは、バブル絶頂期の1980年代の終わりからである。その当時日本国内の空前の好景気で、日本のサッカー界は実業団スポーツから悲願のプロ化に行動を起こしていた(余談だがアジアからW杯の常連だった韓国も1983年にプロ化の前段階の「スーパーリーグ」を設立しており、サッカー界はプロ化しないと世界のサッカー界の潮流から取り残される危機感があった)。

それまでのサッカー日本代表の試合に対するアジア大会やキリンカップでの日当はなく、こういった試合は昔は無報酬で代表選手は出場していた。

キングカズこと三浦知良がブラジルから帰国して、日本代表の試合に日当がないのをサッカー協会のお偉いさんに直訴したり、柱谷哲二が代表の試合で協会に「勝ったら僕らにお金を下さい」といったら「よし!出してやる。その代わり絶対勝てよ!」と協会の強化委員長(実は川淵三郎だった)に言われたり、80年代後半から日本サッカー界は身分が企業に属していて終身雇用が約束されている代わり、無報酬の試合という社会主義ではないがアマチュアリズムの実業団スポーツから、試合結果によって収入が変わるプロスポーツ化(すなわちスポーツの現金化)が進行していった。それまでは代表の試合は重要な試合であっても日当は一試合10000円である種牧歌的ですらあったが、バブル期の日本サッカー界の一種の(世界標準になりたい飢餓感と自分たちの競技のメジャー化への渇望)の強い想いが後のサッカーのプロ化に繋がっていったのである。

今まで日本のサッカー界は自然にプロ化したように思われているが、実は表(選手)も裏(サッカー協会)も、国内の好景気という追い風を利用しながらプロ化とサッカーの試合の現金収入化に成功したのである。

参考文献 Number 839 2013年10月31日号 ドーハの悲劇 20年目の真実、日韓キックオフ伝説 大島裕史 2002年 集英社文庫