前にも言った通り筆者(独眼鉄)はマンガを読むようになって30年以上経つが、昔は年長者に「マンガなんて読んでると馬鹿になるぞ!」なんて言われていたものだが、今や先日の東京ビッグサイトで行われた夏のコミケで期間中にのべ55万人(!)も集客し、海外からも日本のコミケにコスプレしにくる外国人観光客が大挙して押し寄せるようになりマンガは最早「産業」になった感がある。
しかしそんなマンガというものも1990年代に入っていくつかの変化があった。その中にマンガが「役に立つ」ものになったという変化がある。
それまでのマンガというものは(年長者から見ると)低能低劣なギャグマンガか、また現実的にはあり得ないような現象の野球を中心としたスポーツマンガ、もしくは惚れた腫れたで優しいだけが取り柄の優柔不断な若者が2人いるうちどちらの女の子を取るかという青年ラブコメマンガと大体(少なくとも男性マンガは)こうした3つのマンガの方向性に収斂(しゅうれん)されていたものだが、そんなマンガの世界に一種の革命のようなマンガ(大袈裟?)が現れた。
それが「ナニワ金融道」である。作者の故・青木雄二がそれまで経験した大阪の金融界の(金融の教科書にはまず載ってないような)テクニックや裏技を、下ネタを交えながらトーンを使わない独特な絵柄で、どんどん主人公の灰原と共にストーリーを発展させていって、マンガというものが面白いとか笑えるといった要素より(勿論それもあるのだが)、マンガが「役に立つ」「知識が増える」といった新しい価値を創出したというところに、青木雄二という人間がかなりマンガという媒体にかなり先見の明がある思考力を持ったクリエイターだったように筆者は感じる。
役に立つマンガで筆者がもうひとつ押さえておくマンガは三田紀房の「ドラコン桜」である。しかしぶっちゃけ(矛盾したことを言うが)筆者はナニワ金融道を高く評価するのは構わないが、ドラコン桜というマンガは最後まで読む気にならなかった。というのもドラコン桜はあくまでも受験勉強に「役に立つ」マンガであって「面白い」とはかけらも思わなかったからである(三田紀房の野球マンガでいくつか好きなものはあったが…)。
ここで分類しておきたいのは1990年代から2000年代にかけて前述の3つのマンガの方向性(性向)から4つ目の方向性が新たに産み出されたということである。その方向性が「役に立つ」という方向である。
それまでマンガというのはその当時の若者が好む娯楽であり一種のストレス発散のようなものであったのが、そこに「知識が増える」という新たなオプションがマンガに付加されたのである。それまでも小学館や学研が子供向けの歴史や学習マンガは存在していたものの、それとは別にこうしたマンガの存在が出てきたことにより、それまでマンガを低劣なモノと決めつけていた年長者の層の意識が変わったのは事実である。
しかし「役に立つマンガ」にも短所や落とし穴がある。そのマンガを読んでどれだけ面白かったと思ったりできるか?ということである。何歩か譲ってナニワ金融道はまだ面白かったと思える要素はあったが、(持ち上げるようなことを言っていてなんだが)ドラコン桜を読んで本当に感動するのか?今の時代日本の教育研究者が指摘していたが、昨今の高校生は日本の大学がAO入試で容易に入れるようになり、偏差値をヒエラルキーとした権威志向が失墜して東大をアカデミズムの頂点として捉えてないという声もあり(堀江貴文の「ゼロ」で堀江氏が東大のポスドクの劣悪な研究環境に幻滅したとも言われ)、その上今の時代日本人のノーベル賞受賞者の所属研究所が大半は海外で(人によっては国籍を変えた研究者までいる!)、こうして日本の教育環境が内と外から圧力がかかる中で、ドラコン桜が「役に立つ」という定義で捉えられていたのは2000年代後半までで今の時代は受験テクニックを高めるのがいつまで賞味期限があるのかはわからない。今回はマンガの世界に「役に立つ」という概念が創出されたことを書いたが、役に立つマンガも必ずしも全てが全て面白いとは限らない、ということは言っておきたい。
しかしそんなマンガというものも1990年代に入っていくつかの変化があった。その中にマンガが「役に立つ」ものになったという変化がある。
それまでのマンガというものは(年長者から見ると)低能低劣なギャグマンガか、また現実的にはあり得ないような現象の野球を中心としたスポーツマンガ、もしくは惚れた腫れたで優しいだけが取り柄の優柔不断な若者が2人いるうちどちらの女の子を取るかという青年ラブコメマンガと大体(少なくとも男性マンガは)こうした3つのマンガの方向性に収斂(しゅうれん)されていたものだが、そんなマンガの世界に一種の革命のようなマンガ(大袈裟?)が現れた。
それが「ナニワ金融道」である。作者の故・青木雄二がそれまで経験した大阪の金融界の(金融の教科書にはまず載ってないような)テクニックや裏技を、下ネタを交えながらトーンを使わない独特な絵柄で、どんどん主人公の灰原と共にストーリーを発展させていって、マンガというものが面白いとか笑えるといった要素より(勿論それもあるのだが)、マンガが「役に立つ」「知識が増える」といった新しい価値を創出したというところに、青木雄二という人間がかなりマンガという媒体にかなり先見の明がある思考力を持ったクリエイターだったように筆者は感じる。
役に立つマンガで筆者がもうひとつ押さえておくマンガは三田紀房の「ドラコン桜」である。しかしぶっちゃけ(矛盾したことを言うが)筆者はナニワ金融道を高く評価するのは構わないが、ドラコン桜というマンガは最後まで読む気にならなかった。というのもドラコン桜はあくまでも受験勉強に「役に立つ」マンガであって「面白い」とはかけらも思わなかったからである(三田紀房の野球マンガでいくつか好きなものはあったが…)。
ここで分類しておきたいのは1990年代から2000年代にかけて前述の3つのマンガの方向性(性向)から4つ目の方向性が新たに産み出されたということである。その方向性が「役に立つ」という方向である。
それまでマンガというのはその当時の若者が好む娯楽であり一種のストレス発散のようなものであったのが、そこに「知識が増える」という新たなオプションがマンガに付加されたのである。それまでも小学館や学研が子供向けの歴史や学習マンガは存在していたものの、それとは別にこうしたマンガの存在が出てきたことにより、それまでマンガを低劣なモノと決めつけていた年長者の層の意識が変わったのは事実である。
しかし「役に立つマンガ」にも短所や落とし穴がある。そのマンガを読んでどれだけ面白かったと思ったりできるか?ということである。何歩か譲ってナニワ金融道はまだ面白かったと思える要素はあったが、(持ち上げるようなことを言っていてなんだが)ドラコン桜を読んで本当に感動するのか?今の時代日本の教育研究者が指摘していたが、昨今の高校生は日本の大学がAO入試で容易に入れるようになり、偏差値をヒエラルキーとした権威志向が失墜して東大をアカデミズムの頂点として捉えてないという声もあり(堀江貴文の「ゼロ」で堀江氏が東大のポスドクの劣悪な研究環境に幻滅したとも言われ)、その上今の時代日本人のノーベル賞受賞者の所属研究所が大半は海外で(人によっては国籍を変えた研究者までいる!)、こうして日本の教育環境が内と外から圧力がかかる中で、ドラコン桜が「役に立つ」という定義で捉えられていたのは2000年代後半までで今の時代は受験テクニックを高めるのがいつまで賞味期限があるのかはわからない。今回はマンガの世界に「役に立つ」という概念が創出されたことを書いたが、役に立つマンガも必ずしも全てが全て面白いとは限らない、ということは言っておきたい。