ここ数日、梅雨明けしてから予想通りの猛暑でブログもおざなりにして読者の皆様には申し訳ないが、それでもブログそのものは更新したいので今携帯電話の前でブログを考えている。
そんなダレた前置きはともかく(今まで同様に)「若者の貧困と日本社会の在り方」を考えていくが、日本のみならず欧米でも若年層の失業率は軒並み高い(今日本の若者の失業と貧困を考えているが、世界レベルでの失業率を考えたら日本はまだマシな方)がそもそも何故若年層はこれだけ皆隆々辛苦受験競争や就活をしているのに、何故雇用の口がないのか?
今の時代レジャーランドと揶揄されていた20世紀の頃の大学とは異なり、今の大学生活は1・2年は就活の準備で3・4年は就活に忙殺されていて、授業が受けられない状態になっている(もっとも教える側の大学教授も自分の研究の世界に引きこもりになっているのでそこまで大勢[たいせい]に影響はないのだろうが)。これでは大学ではなく就活生養成機関である。
一昔前なら国家資格(弁護士・公認会計士・税理士・宅建など)を取得して、就活を少しでも有利にさせようと涙ぐましい努力をしているが(今も努力している就活生もいるだろうが)、今の時代資格予備校も乱立し政府の掛け声が強かった弁護士の増加と法科大学院制度も、結局弁護士に(弁護士試験は3回しか受けられない)なれなかった人は路頭に迷い、努力が実って弁護士のバッジをつけられた人も10年前の倍に(同僚やライバルが)増えたので(しかもそのライバルが毎年何万人も増える)、弁護士の供給過多の上に肝心の弁護士の需要が増えてないので、年収が200万円も減っている。文系エリートの最高峰でさえでそうである(詳しくは2014年5月16日号・筆者のブログ・雇用[その32]・国があてがった仕事、を参照)。話は長くなったが若者の就活に箔をつける資格すら今の時代過当競争である。
こういう20世紀の日本社会のある種の「しあわせ」な時代が終焉し、決まった人生設計ができない時代にこの国の既得権益を持っているオトナに無責任に放り出された若者は悲惨である。そもそも今の20代前半の若者に自分の人生設計がきっちりできる人間はかなり稀である。筆者(独眼鉄)にしたって物をしっかり考えられるようになったのは最近である。多様な人間性が若者の精神を成長させると言うが、人種の坩堝と呼ばれた都内の大学もほとんど大半は一都三県の出身者が多いので、その考えは今は昔。大学で本来学ばないといけない教養や知識を短期的な利潤のみで動いていた今の教育機関に大いに問題が内包している。
大学で学ぶことはビジネスマナーや資格取得のテクニックではなく、物事の問題や社会について深く洞察し考えぬく思考力であり、大学生になってまでそれまでの受験競争の延長線上の就活版受験テクニックではないのである。大学生も大学側も就職してからのことばかり考えずに、若者が就職に必要なものを見失わないで貰いたい。
そんなダレた前置きはともかく(今まで同様に)「若者の貧困と日本社会の在り方」を考えていくが、日本のみならず欧米でも若年層の失業率は軒並み高い(今日本の若者の失業と貧困を考えているが、世界レベルでの失業率を考えたら日本はまだマシな方)がそもそも何故若年層はこれだけ皆隆々辛苦受験競争や就活をしているのに、何故雇用の口がないのか?
今の時代レジャーランドと揶揄されていた20世紀の頃の大学とは異なり、今の大学生活は1・2年は就活の準備で3・4年は就活に忙殺されていて、授業が受けられない状態になっている(もっとも教える側の大学教授も自分の研究の世界に引きこもりになっているのでそこまで大勢[たいせい]に影響はないのだろうが)。これでは大学ではなく就活生養成機関である。
一昔前なら国家資格(弁護士・公認会計士・税理士・宅建など)を取得して、就活を少しでも有利にさせようと涙ぐましい努力をしているが(今も努力している就活生もいるだろうが)、今の時代資格予備校も乱立し政府の掛け声が強かった弁護士の増加と法科大学院制度も、結局弁護士に(弁護士試験は3回しか受けられない)なれなかった人は路頭に迷い、努力が実って弁護士のバッジをつけられた人も10年前の倍に(同僚やライバルが)増えたので(しかもそのライバルが毎年何万人も増える)、弁護士の供給過多の上に肝心の弁護士の需要が増えてないので、年収が200万円も減っている。文系エリートの最高峰でさえでそうである(詳しくは2014年5月16日号・筆者のブログ・雇用[その32]・国があてがった仕事、を参照)。話は長くなったが若者の就活に箔をつける資格すら今の時代過当競争である。
こういう20世紀の日本社会のある種の「しあわせ」な時代が終焉し、決まった人生設計ができない時代にこの国の既得権益を持っているオトナに無責任に放り出された若者は悲惨である。そもそも今の20代前半の若者に自分の人生設計がきっちりできる人間はかなり稀である。筆者(独眼鉄)にしたって物をしっかり考えられるようになったのは最近である。多様な人間性が若者の精神を成長させると言うが、人種の坩堝と呼ばれた都内の大学もほとんど大半は一都三県の出身者が多いので、その考えは今は昔。大学で本来学ばないといけない教養や知識を短期的な利潤のみで動いていた今の教育機関に大いに問題が内包している。
大学で学ぶことはビジネスマナーや資格取得のテクニックではなく、物事の問題や社会について深く洞察し考えぬく思考力であり、大学生になってまでそれまでの受験競争の延長線上の就活版受験テクニックではないのである。大学生も大学側も就職してからのことばかり考えずに、若者が就職に必要なものを見失わないで貰いたい。