今ブラジルで熱戦が繰り広げられてるワールドカップ(以下W杯)。今大会はそうでもなかったが一時期サッカー界(というよりスポーツ界全体)で一つの問題があった。
それはサッカー選手(アスリート)の帰化問題である。少し古い話になるのだが、2007年12月にFIFA会長のジョセフ・ブラッターが「ブラジル人選手の帰化にブレーキをかけなければならない」と言った。チームの強化に即効性が見込めてハズレの少ないブラジル人はどこの国のリーグでも重宝されている(無論Jも例外ではない)。一方でブラジルほど代表に選ばれるのが難しい国もない。あの黄色いユニフォームはほとんどのブラジル人選手にとって憧れで終わってしまうのが現状てある。
自国の選手より活躍が見込めるブラジル人選手が目の前にいる。その選手は国際舞台での活躍を望んでいる。両者の利害が一致して帰化という選択肢が選ばれるのである。
ここまで帰化に関して考えてみたが、日本代表に関してはどうだろうか?古くは日本代表が「全日本」「オールジャパン」と呼ばれていた頃は与那城ジョージ(当時読売クラブで「ミスターヨミウリ」と呼ばれていた・現ブラウブリッツ秋田監督)のように日系ブラジル人を中心に日本代表はブラジル人選手を1970年代から補強してきた歴史がある。その後その与那城とブラジルで同郷だったラモス瑠偉(現FC岐阜監督)が読売クラブに呼ばれ、やがてラモスはクラブの中心選手になっていった。そのラモスがリーグの外国人枠の関係で日本に帰化した方がクラブに都合が良い為、ラモスは悩みに悩んだ末に帰化を選択した(当時は帰化する時も日本語の抜き打ち試験があって苦労したという)。そして日本代表がW杯アジア予選で戦うことになり、ラモスが招集されるようになった。
こうして昔の日本代表のブラジル人選手帰化というのは代表よりも、当時の日本の国内リーグの外国人枠の都合の要素が強かったが、ラモスが代表招集された辺りから国内リーグの枠の問題よりも日本代表の強化にシフトしていった。
W杯アメリカ大会でのドーハの悲劇では周知の通りラモスも日本代表もW杯本大会には行けなかったが、JFAはその後も呂比須ワグナー(フランス大会・ジョホールバルの歓喜)、三都主アレサンドロ(シドニー五輪)、田中マルクス闘莉王(南アフリカ大会)と国際大会でブラジル人の帰化選手を「補強」してきた歴史がある(このブラジル大会でブラジル帰化選手がいないのは一種の皮肉か)。ラモスのように長く日本に滞在しある一定レベルの日本語(帰化する国の言語)を話せたり、闘莉王や三都主のように家族のルーツが日本だったり、日本の学校を卒業したり日本と深く繋がりがある選手ならそれもいいが(ブラッターの意見とは別に国際世論は寛容だが)、他の国では短期間に国籍を変えるケースもあるという。あまり進むと国際大会としての意義も薄まる。サッカー選手(アスリート)の帰化問題は考えていかなければならない。―続く―
参考文献 R25 2008年1月24日号
マリオネット プロサッカーアウトロー物語 山岡淳一郎 2002年 文藝春秋
それはサッカー選手(アスリート)の帰化問題である。少し古い話になるのだが、2007年12月にFIFA会長のジョセフ・ブラッターが「ブラジル人選手の帰化にブレーキをかけなければならない」と言った。チームの強化に即効性が見込めてハズレの少ないブラジル人はどこの国のリーグでも重宝されている(無論Jも例外ではない)。一方でブラジルほど代表に選ばれるのが難しい国もない。あの黄色いユニフォームはほとんどのブラジル人選手にとって憧れで終わってしまうのが現状てある。
自国の選手より活躍が見込めるブラジル人選手が目の前にいる。その選手は国際舞台での活躍を望んでいる。両者の利害が一致して帰化という選択肢が選ばれるのである。
ここまで帰化に関して考えてみたが、日本代表に関してはどうだろうか?古くは日本代表が「全日本」「オールジャパン」と呼ばれていた頃は与那城ジョージ(当時読売クラブで「ミスターヨミウリ」と呼ばれていた・現ブラウブリッツ秋田監督)のように日系ブラジル人を中心に日本代表はブラジル人選手を1970年代から補強してきた歴史がある。その後その与那城とブラジルで同郷だったラモス瑠偉(現FC岐阜監督)が読売クラブに呼ばれ、やがてラモスはクラブの中心選手になっていった。そのラモスがリーグの外国人枠の関係で日本に帰化した方がクラブに都合が良い為、ラモスは悩みに悩んだ末に帰化を選択した(当時は帰化する時も日本語の抜き打ち試験があって苦労したという)。そして日本代表がW杯アジア予選で戦うことになり、ラモスが招集されるようになった。
こうして昔の日本代表のブラジル人選手帰化というのは代表よりも、当時の日本の国内リーグの外国人枠の都合の要素が強かったが、ラモスが代表招集された辺りから国内リーグの枠の問題よりも日本代表の強化にシフトしていった。
W杯アメリカ大会でのドーハの悲劇では周知の通りラモスも日本代表もW杯本大会には行けなかったが、JFAはその後も呂比須ワグナー(フランス大会・ジョホールバルの歓喜)、三都主アレサンドロ(シドニー五輪)、田中マルクス闘莉王(南アフリカ大会)と国際大会でブラジル人の帰化選手を「補強」してきた歴史がある(このブラジル大会でブラジル帰化選手がいないのは一種の皮肉か)。ラモスのように長く日本に滞在しある一定レベルの日本語(帰化する国の言語)を話せたり、闘莉王や三都主のように家族のルーツが日本だったり、日本の学校を卒業したり日本と深く繋がりがある選手ならそれもいいが(ブラッターの意見とは別に国際世論は寛容だが)、他の国では短期間に国籍を変えるケースもあるという。あまり進むと国際大会としての意義も薄まる。サッカー選手(アスリート)の帰化問題は考えていかなければならない。―続く―
参考文献 R25 2008年1月24日号
マリオネット プロサッカーアウトロー物語 山岡淳一郎 2002年 文藝春秋