スポーツイベントと日韓外交を語る上で外せないのがワールドカップ。しかし日韓とワールドカップには色々あったのであった。

元々ワールドカップと日韓関係で動きがあったのは2002年の日韓共催の前の1998年のフランス大会からである。1994年のアメリカ大会でのアジア地区最終予選ではカタールのドーハで「セントラル方式」(一ヵ所に予選出場国が集まって試合をする方式)が採用されていて、中東での集中開催は当然地元の中東(ドーハの時はサウジアラビア・イラン・イラク・日本・韓国・北朝鮮が参加)が有利なのは推して知るべしである。その為ドーハの後、JFA(日本サッカー協会)は韓国サッカー協会と手を組み「アジア地区予選は世界の主流であるホーム&アウェイ方式にしよう」とFIFAに持ちかけて承認してもらったのである(余談だがW杯アジア地区予選がホーム&アウェイになったのはアジアの選手の欧州移籍が活発化してセントラル方式で選手を長い期間集めるより、国際Aマッチデーを設定して決められた日時に選手を集めた方が代表チームも国内外のクラブチームも都合が良いという側面もあった)。昨日の敵は今日の友ではないがサッカーの世界の国際外交も一筋縄ではいかない世界である。

そしてスポーツイベントと日韓外交で外せないのが2002年のW杯だが、元々この大会の招致というのは日本vs韓国という東アジアのライバル対決ということだけではなかった。

2002年W杯には実質的に日本と韓国の一騎討ちであったが、それだけではなかった。JFAは元々FIFA会長のアベランジェ(ブラジル)の庇護にあったがFIFA内の権力抗争に日韓のW杯招致問題が巻き込まれていった。前述のように日本はアベランジェの庇護によってFIFA内の発言力を高めていったが、スウェーデンのヨハンソンを中心としたヨーロッパのサッカー協会理事はアベランジェの独裁的な振る舞いに不満因子が多くなっていった。そのFIFA内の権力抗争に韓国サッカー協会はFIFA副会長である鄭夢準(現代グループの御曹司で前述の鄭周永の五男)が豊富な資金力を用いて、ヨーロッパの理事に2002年のW杯を(アベランジェ寄りの日本より)韓国開催でやった方が良いというサッカー界の国際政治のパワーバランスを巧みに突いた外交をやっていたのである。このやり方に賛否両論あろうが、自国に有利な交渉をするという面では韓国側の優れた外交手腕と認めざるを得ない。

しかしW杯招致問題もヨーロッパ側は元々韓国を猛プッシュしていた訳ではなく、外交上「敵の敵は味方」の論理で手を組んだに過ぎず韓国側に決定的な材料がなかったのも事実である。そしてFIFA内部でもAFC(アジアサッカー協会)でも「同じアジアで日本と韓国はなぜ争うのか?」という声もあった。日本単独開催だとアベランジェの独裁が続いて困る、韓国単独開催だとFIFAの公式スポンサーの日本企業(ジャパンマネー)を締め出すことになりこれも困る。よってFIFAやAFCの理事にとって共催が一番都合が良かったのである。

そして韓国側も当初は前述の鄭夢準を中心に単独開催を熱望していたが、サッカー界パワーバランスを考えてFIFAに日韓共催案を飲むことを2002年W杯開催地決定直前に理事に手紙で伝えた。そして開催地決定2日前にFIFAは「韓国が2002年大会の日韓共催を飲む」とJFAに伝えて日本側の意向を訊いた。日本としてはここで日本単独開催を強硬に主張して勝ち目があるかないかわからない賭けをするより、確実に(分け前は減るが)開催を確保できる日韓共催を瀬戸際になって決断したのである。2002年のW杯日韓共催というのは東アジアのライバル対決のみならず、サッカー界の国際的なパワーバランスと外交から生まれた一種の妥協の産物だった面も否めない。しかしそこから21世紀というのはアジアの中でも新たな時代に突入していったのである。

こうしたスポーツビジネスというモノは(サッカーという特にメジャーな競技ではその傾向が強いが)色々な人間の思惑や野心、情熱や金儲けなど様々な感情や計算の中でうごめいている。

特に日韓W杯での招致活動やスポンサー集めなどで良くも悪くも日本という国は韓国という国に対して「自分(日本)が知らない国の人間が、こんなにも自分のことを(政治や経済、日本文化を)研究していたんだ。自分はアジアの他の国のことを知らなさすぎた」と感じる大きなきっかけとなった出来事だ。

最初はメガスポーツイベントに対しての不倶戴天の敵であったが、結果的に日韓共催という形に落ち着いたことにより、(歴史問題の火種はくすぶり続けているものの)「許せない憎しみ」というより「純粋に自分たちと同じような能力のある人間(国=韓国)には絶対負けたくない宿命のライバル」というように(サッカーだけではないが)、日韓W杯というイベントを節目として日本における韓国の存在感が肯定されだしたことは、共催の思わぬ副産物だった。

また日本やひいては東アジア圏内でもこれだけ大きな五輪以外のスポーツイベントが成功したのは、国内におけるスポーツビジネスという新たな産業のパイの構築に繋がった。

その一方でスポーツイベントを招致するということはスポーツが好きだからという綺麗事だけではできないのも事実だった。この時のW杯招致で(向こうもそうだが)日本は最初腹積もりしていた会場が半分になってしまった。そういう悔しさも当然ある。

しかし「コップの水はもう半分しかない」か「コップの水はまだ半分もある」ではないが、JFAもこの時韓国とコップの水を半分は確保したかった、という苦渋の決断がW杯共催という方向に向かっていったのもある。

こうして見ると日韓W杯はビジネス面では本来の半分のパイしか取れなかった悔しさと、共催という面でそれまで顔の表情が見えなかった韓国という国の輪郭が急にくっきり見えて、一気に両国が親密になるきっかけになった楽しさが出た二律背反で真逆の感情が押し寄せた不思議なイベントだった。


参考文献 サッカーの国際政治学 小倉純二 講談社現代新書 2004年